3)日本最初の西洋蜜蜂飼育


 大日本農史今世明治10年の章に以下のような記述があります。

 

 この年、勧農局においてアメリカよりイタリア国種のミツバチを購求し、これを新宿試験場に飼養し内外蜜蜂の得失を試験した。   (大日本農史今世、p249~250)

 

 以下、各語句を詳しく検証していきます。

 

“この年”

 

 大日本農史今世p249-250の記述の前後関係から、明治10年(1877)だと確定できます。

 

“勧農局において”

 

 明治7年に設置された内務省」「勧業寮」は明治10年には「勧農局」と名称換えがされました。その農業政策は諸外国を視察し、植物、家畜を購入し、その栽培、飼育技術を導入すると言うものでした。(――>大日本農[3] 今世p136~137) 明治5年に設置され、明治7年に内務省の所管となった「内藤新宿試験場」においてその政策は推進されました。明治8(1875)の独逸農事図解第7蜜蜂養法の翻訳出版に見るように西洋蜜蜂養蜂も内務省勧農局の農業政策の対象でした。

 

“アメリカより“

 

 当時アメリカは養蜂先進国でイタリアン種、カーノリアン種、サイプリアン種などをヨーロッパから導入し、養蜂の近代化と事業化が推進されていました。

 

アメリカ情報について、史料写真 準備中

 

“イタリア国種のミツバチを購求”

 

 購入したのは、当時すでに最優良種とされてアメリカで広く飼育されていた“イタリアン種”でした。日本の気風土に最も適しているとの判断があったものと思われます。

 

ルート商会カタログ写真 準備中

 

“新宿試験場にて飼養し”

 

 このようにして日本で最初の西洋ミツバチ飼育が内藤新宿試験場ではじまりました。日本最初の西洋蜜蜂の飼育です。内藤新宿試験場は現在は“新宿御苑”となっています。 新宿御苑の歴史は大体以下のようです。

 

 徳川家康が家臣であった内藤清成に江戸屋敷として広大な土地を授けました。内藤氏7代清枚が元禄4年(1691)に信州高遠城主となった後、内藤家は江戸屋敷のかなりの部分を幕府に返上しました。明治5年に明治政府は内藤家から上納された土地と買収した隣接地を合わせた58.3hの敷地に、「内藤新宿試験場」を設置しました。明治7年には内務省の所管となりました。

 

 明治12年、明治政府の農業振興政策拡充のなかで、内藤新宿試験場は、その幅広い役割を他に移し、宮内省所管の「新宿植物御苑」なりました。その後皇室の庭園「新宿御苑」となりましたが、昭和24年5月21日から「国民公園新宿御苑」として一般に開放されています。

 

新宿御苑写真 準備中

 

“内外蜜蜂の得失を試験した”

 

 内藤新宿試験場の任務は外国から購入した植物の日本適合試験を行い、繁殖し、その種、苗木を広く全国に頒布することと、同様に外国から購入した西洋種の家畜の日本適合試験を行い、繁殖させ、それらと西洋式農具を全国に貸与することでした。(――>大日本農史今世p136~137) 西洋蜜蜂もこの趣旨に則り日本適合試験がされました。本記述から日本蜜蜂の飼育試験もされたことがわかります。

 

 

日本蜂の飼育試験

 

 この時期の状況を記録した文献として、松本保千代編 草莽の農聖蜜市翁小傳、1959(昭和34年1月発行)があります。本書は全国の図書館中、和歌山県立図書館しか所蔵していません。国会図書館が所蔵しているのは本書が分割転載されている月刊ミツバチの昭和34年10月号、11月号、昭和35年1月号、2月号、6月号です。筆者は月刊ミツバチの転載分は所有しているのですが、いつかは原本を直接見に行きたいと長年思っていました。それが、2017年の秋に遂に実現しました。前もって、趣旨を伝えておりましたので、写真撮影やコピーもスムーズにさせていただきました。

 

草莽の農聖蜜市翁小傳(和歌山県立図書館所蔵)

 

 原本と月刊ミツバチの転載を比較すると、原本の「はしがき」は編者の松本保千代、転載の方の「はしがき」は月刊ミツバチの編者がそれぞれの事情に沿って記述したもので別文です。原本には「貞市右衛門略系図」が付いていますが、転載にはありません。原本では漢字書きになっていても、転載の方では平仮名書きにしているところや、その逆が何箇所かあります。転載の方に誤植があるのか「てにをは」が間違っているところがあります。また数字が違っているところが以下のように2か所あります。

 

  原本

  月刊ミツバチの転載

明治八年、国の方でも養蜂のことに眼をつけて、(p47)

明治六年、国の方でも養蜂のことに眼をつけて、(143号、p49)

人夫二人に蜜箱四個を担がせ、

(p47)

人夫五人に蜜箱四個を担がせ、

(143号、p49)

 

 転載の方の「はしがき」に “発行者の貞松一郎氏のお許しをえて、ここに転載することにした。”とあることから、原本の編者松本保千代は転載には関わっておらず、内容の訂正や補はなかったと確定できます。転載文に見られる誤植、原本との食い違いは全て転載時に起きたことと言えます。ですから史料としては原本を採用するのがもちろん妥当です。

 

 以下は原本から抜粋です。

 

 明治8年国の方でも養蜂のことに眼をつけて、この道の練達者として市右衛門に白羽の矢が立てられ召されることがあった。しかし自分はもう老境――明治8年には51才ーーにはいったし、家業を推し進めるのにも家郷を離れることが許さない事情にあったので、市次郎を推せんし上京さすことにした。(中略)

 

 市次郎は、人夫2人に蜜箱4個を担がせ、東海道を徒歩で日数を累ねて東京に赴いた。(中略)

 

 上京すると勧業寮蜜蜂飼養出仕係を仰せつけられて、内藤新宿の御苑内にあった勧業寮に勤務することになった。(中略)

 

 市次郎は父に従って経験した蜜蜂についての知識と技術を傾けて所謂蜜市流ともいうべき養蜂の研究と指導に没頭した。勿論この方面の技術官であった技師武田昌次などの新しく科学的な指導や示唆を受けて帰郷後の改良したり、業績を進めていくのに得るところ少なくなかった。家庭の問題や上京中の出費のことなどから滞京の期間を考えなければならなくなり、上京から約2ヶ年を経た9年12月、暇を請うて帰省した。

 

 武田昌次氏は熊々市右衛門の業績に期待を持って東京からこの宮原の草深い田舎に来てその実情を見た人で、市次郎に小笠原へ行って、養蜂の新しい天地を開拓するように勧めてこの技術の発展を期待した。武田氏は政府の技術指導官で、市次郎上京のことも同氏の斡旋と推薦によるものであろうし、滞京中もよく面倒を見ておられたようである。帰京後自園の蜜柑を贈って謝意を表している。明治十年の内国勧業寮博覧会の際も審査担当者であった。

 

 

 

 

 

30歳頃の貞市次郎和歌山県立図書館所蔵の「莽の農聖蜜市翁小傳」より

 
 
貞市次郎について下記の著書に言及があります。多少食い違いがありますので対照してみたいと思います。

 

蜜市翁小傳

松本 保千代編

1959(昭和34年)

 

最新実利養蜂の経営

渡辺寛 

昭和7年、p19

―――――――――

実験50年養蜂経営の実際

渡辺寛

昭和25年、p78

―――――――――

近代養蜂

渡辺寛

昭和49年、p205

畜産発達史

 

新宿勧業寮出張所の日本蜂

p1316~7

はちみつとチーズ読本、小田忠信、

平成25年

p27

(明治8年)上京すると勧業寮蜜蜂飼養出仕係を仰せつけられて、内藤新宿の御苑内にあった勧業寮に勤務することになった。(中略)上京から約2ヶ年を経た9年12月、暇を請うて帰省した。

 

 

 

明治10年9月紀州蜜市翁の息貞市次郎を招きて蜜蜂係を申し付け、特に米国からイタリアン種をも輸入して内外蜜蜂の比較試験を為さしめた・・・

1975年(明治8)内務省属武田昌次は、紀州宮原の地に前記貞市右衛門を訪れ、上京して養蜂の研究に当たらんことをすすめ・・・

 

1875年(明治8年)、内務省農業技術官武田昌次は、和歌山県の貞市市次郎(当時21才)

を招き、勧業寮のミツバチ飼養出仕係に任じました。(中略)

貞市は1876年(明治9)に帰省しました・・・

 

 上掲の対照表から以下のような事柄がわかります。

 

あ)はちみつとチーズ読本の「貞市」という姓は間違い。姓は「貞」で、名は「市次郎」です。

い)畜産発達史とはちみつとチーズ読本は蜜市翁小傳が元資料と思われます。

う)渡辺寛の記述は元資料不明。”明治10年9月”の根拠不明。

 

 

市次郎の上京時期について

 

 草莽の農聖蜜市翁小傳草莽の農聖蜜市翁小傳は蜜市が記録していた帳簿や貞家に保存されていた史料をもとに貞家の歴史をひ孫にあたる3代目蜜市貞松一郎が発行、その編纂を松本保千代が委託されたものです。原本、転載とも貞市右衛門略年譜が付いていますが、大変詳しいものです。その中に、貞市次郎に関する記録もいくつかあります。明治8年のところに 次のように書かれています。

 

 市次郎召によって父に代わって上京、勧業寮に蜜蜂のことで勤む

 

 原本には「貞市右衛門略年譜」の後に「貞市右衛門略系図」が付いています。市次郎については次のように書かれています。

 

 法名 釈西行 安政二年生る、母田辺屋の女、文久二年三月四日八つ判祝、明治八年上京、勧業寮養蜂勤務、九年十二月帰国、村山市左衛門女かめのと結婚、吉田氏を称、三十一年渡米、三十四年七月二十三日彼地に客死。

 

 貞市次郎が上京し勧業寮に勤務したのは明治8年で、21歳でした。何月に上京したのかについては言及はありませんが、蜂を和歌山から東京まで担いで運んだことを考えると、まず夏ではありえません。春又は秋も不可能ではありませんが、最適なのはやはり冬ということになります。東海道を蜂箱を担いで上るのですから1ヶ月はかかります。和歌山を2月中旬から末までくらいに出発し、東京には3月中旬から末くらいまでに到着したのではないかと筆者は考えています。その根拠は以下のようです。

 

1)第1は内務省勧業寮の活動パターンです。内務省勧業寮の活動は年初めに決定が出、動き出すパターンが多いです。明治8年1月初めに、蜜市招聘案が出、武田昌次が和歌山に出向き、面談は1月末頃。蜜市は応じませんでしたが、市次郎を推薦し、人夫2名に蜂箱4個を担がせ上京することになりました。準備に最低10日程度は必要ですから、一番早くて出発は2月中旬、遅くても2月末には出発可能です。

 

2) 第2は武田昌次の明治8年の活動記録です。武田昌次は明治8年の活動記録を確認すると5月22日から清国出張、帰国は11月7日で、帰国後は年内いっぱい報告書の作成に当たりました。ですから、武田昌次のスケジュールからみますと、4月末までに養蜂の全ての段取りをつけておく必要がありました。和歌山を2月中旬から末までくらいに出発し、東京に3月中旬から末の到着であれば、出張前に市次郎関係の十分な段取りができます。

 

3) 第3は松本保千代の記述です。上京から約2ヶ年を経た9年12月、暇を請うて帰省した”とあります。帰郷が明治9年12月ですから。約2年前の明治8年の月はと言えば1~3月と言えます。

 

 以上の観点から明治8年の2月中旬から末までくらいに和歌山を出発、東京には3月中旬から末くらいの到着と言いうのが筆者の推測です。最大ずれても後に1ヶ月程度です。

 

 

新宿試験場での貞市次郎の養蜂について

 

 市次郎が新宿試験場に運んだ蜜蜂は父市右衛門が和歌山で飼っていた日本蜂でした。市右衛門は種々工夫をし、移動用巣箱も独自に開発していました。前後金網で、サイズはかなり小さく幅30cmx奥行40cmx高さ24cm程度のものでした。

 

 上京時、人夫2人に4箱の巣箱でしたから、1人2箱、天秤棒の両橋に巣箱をくくり付け、担いで運んだもの思われます。移動用の巣箱は蜂量主体でしたから、巣碑や貯蜜は少なくし、1箱10kg程度、重くても15kg程度でした。背負うよりも天秤棒で担ぐ方が体に負担が少なく、東海道での荷運びに良く見られた運搬方法でした。

 

 上京すると勧業寮蜜蜂飼養出仕係を仰せつけられて、内藤新宿の御苑内にあった勧業寮に勤務することになった。(中略)

 

 市次郎は父に従って経験した蜜蜂についての知識と技術を傾けて所謂蜜市流ともいうべき養蜂の研究と指導に没頭した。勿論この方面の技術官であった技師武田昌次などの新しく科学的な指導や示唆を受けて・・・・

 

 上記にみられるように、明治8年の内務省勧業寮新宿試験場での養蜂試験は、定説のまだない日本蜜蜂の飼育法と生態を知り、近々予定している西洋蜜蜂の日本適合試験の為の準備でした。内務省勧業寮新宿試験場の任務は外国の動植物を輸入し、日本適合試験を行い繁殖させ、それらを日本各地に貸し出すか、払い下げることでした。市次郎は勧業寮の蜜蜂飼育者たちに、父蜜市の飼養法を伝授しました。また同時に語学堪能で、アメリカの養蜂事情や新技術について知識を持っていた武田昌次から、海外の養蜂について学びました。

 

 

 市次郎の明治9年12月帰郷について

 

 勧業寮では、日本蜂の飼養試験だけでなく、西洋蜜蜂の輸入と飼育試験を予定していましたから、市次郎には、この後、西洋蜜蜂の飼育試験に進んでもらうはずだったと思います。しかし、家庭の問題や上京中の出費のことなどから滞京の期間を考えなければならなくなり、上京から約2ヶ年を経た9年12月、暇を請うて帰郷しました。

 

 市次郎はまだ独身でしたから、“家庭の問題” とは妻子に関わる事柄ではないはずです。家系図からわかることは、右衛門右衛門の子は長男市次郎、長女ふさの、次女たかです。ふさのは婿を取り別家、たかも婿を取り、この婿が2代目蜜市となりました。貞家に起こっていたごたごたを編纂者松本保千代は詳細には記述せず、“家庭の問題”としたのだと思われます。 

 

 在京中の市次郎には経済的な問題もありました。和歌山で父のもと自営業に携わっていた時には、ある意味裕福でしたが、国の給料は決まった額で他の同列の勤務者と同等で特別扱いはされていなかったと思われます。家庭の問題と経済的な問題から、暇をもらい帰郷しました。明治9年12月のことでした。12月22日には帰郷のお祝いが開かれ、市次郎は16人以上の関係者にみやげを渡しています。また、10人程度の来賓から帰郷祝いの金品を贈られています。(p49~51)

 

 

武田昌次とのその後の付き合いについて

 

 市次郎の在京中の約2年間に内務省の日本蜂飼育試験は進み、蜜市流の飼育法は検証され、一応の目的は達成されたと言えます。市次郎は2年目の越冬準備までやり終えてから暇を請うたのであり、決して途中で投げ出したというものではありません。帰郷により、長期勤務を期待していた武田昌次らとの人間関係が崩れたということはありませんでした。帰郷後、自園の蜜柑を贈って感謝の意を表したと記述されています。貞家の日本蜂の蜂蜜はその後も内務省主催の博覧会に出品され、賞を与えられています。ここにも、武田昌次との友好関係がうかがえます。

 

 武田昌次が市次郎に小笠原島行きを勧めた件については 付5)武田昌次の足 に詳しく記述しました。また、市次郎の渡米については 付6)武田昌次は幕臣塚原但見守昌義 に詳しく記述しました。ご参考ください。

 

 

新宿試験場の西洋蜜蜂飼育試験について

 

 内務省に於いて西洋蜜蜂の飼育試験が始まったのは、市次郎が帰郷した翌年、すなわち明治10年です。「大日本農史今世」は明治の各年の内務省内の記録文書を編纂したものですが、その編纂の方法は年毎にまとめ、年を月ごとに、月の内は日付順に編纂しています。月はわかるが日付の不明な文書はその月の最終にまとめ“此の月”と頭につけています。その年の記録ではあるが、月がわからない文書は “此の年”と頭につけて12月の最後に編纂しています。明治10年の記録は最終日付は12月28日で、その後に“此の月“のついた文書が2つあり、その後に”此の年“のついたアメリカからイタリアン種を輸入し新宿試験場にて飼育試験を行った記録が編纂されているのです。

 

 西洋蜜蜂の飼育は明治10年春から始まったと筆者は考えています。理由は以下のようです。

 

1)第1は内務省勧業寮の活動パターンです。内務省勧業寮の活動は年初めに決定が出、動き出すパターンが多いです。明治10年1月初めに、西洋蜜蜂輸入案が出、米国に手配。即、発送にかかったとしても、船便で最低30日程度は必要ですから、一番早くて到着は2月中旬、遅くても2月末には到着したのではないかと思います。

 

2)蜜蜂飼育者ならわかることですが、真夏の蜜蜂輸送には危険が伴います。蒸殺ということがあるからです。まして船便で1か月というのでは、生きて到着したら奇跡と言えるくらいのことです。ですから、真夏の輸送を避けたことは想像できます。飼育試験を始める時期ですが蜜源の花が咲き出し、蜜蜂が活動を始める春にスタートするというのは普通のやり方です。そうすれば、1年の飼育が系統的に順を追って体験できます。

 

 新宿試験場では下記のような適合試験が行われたものと思われます。

 

<気候、環境適合>

気候=夏熱く、冬寒く、梅雨期ある

夏は木陰なら全く問題なし。

冬は充満群で十分な貯蜜があるなら、内装備、外装備なしでも越冬出来る。

養蜂舎で飼育か?(――>顛末)

 

<病気、害虫適合>

天敵=スズメバチ、

ダニ被害や、スムシ、チョーク病は経験できたかもしれないが、ふそ病は発症せず未経験と思われます。

集蜜は多く、正確は温厚で、多産卵で大群となる。

 

<産業適合>

4-5月には分封し、自然増群でき、人口分封によれば、1年に1群は4-5群に増やせる。

多集蜜

 

<道具適合>

可動式巣枠飼育方式で内見、採蜜等の管理が便利。

各種養蜂器具の使用実験。

王蜂養成。

 

 

西洋蜜蜂の飼育試験の位置づけにつて 準備中

西洋蜜蜂の飼育試験終了と払い下げにつて 準備中

 

 

明治10年(1877)時点での海外の主な養蜂書

 

ーー>解説準備中

 

・New Observations on the Natural History of Bees, 1806, by Francis Huber

・The Honey-Bee. Natural History, Physiology and Management,1827, Edward Bevan

・Humanity to Honey Bees, 1832, by Thomas Nutt

・A Manual or an Easy Method of Managing Bees, 1837, by John Weeks

・Aparian or the Management of Bees, 1840, W.W. Hall 

・Observations on the Natural History of Bees, 1841, by Francis Huber

・Bees Their Natural History and General Management, 1844, by Robert Huish

・The Hive and the Honey Bee,1848, H.D. Richardson

・A Description of the Bar-and-frame Hive, 1850, invented by W. Augustes Munn

・A Complete Guide to the Mystery and Management of Bees, 1852, by William White and James Beesley

・Eddy on Bee-culture, and the Protective Bee-hive, 1854, by Henry Eddy

・Mysteries of Bee-keeping Explained, 1859, by M. Quinby

・Bees and Beekeeping a Plain, Practical Work, 1860, by W.C. Harbison

・A Key to Successful Bee-keeping, 1862, by Martin Metcalf

・Bee-keeping, by 'The Times' bee-master, 1864, John Cumming

・A Practical Treatise on the Hive and Honey-bee, 1865, by L.L. Lanfstroth

・The Apiary or Bees, Bee-Hive and Bee Culture, 1865, Alfred Neighbour

・Mysteries of bee-keeping explained , 1866 

・British Bees. Natural History & Economy indigenous to British Isles, 1866, W.E. Shuckard 

・A New System of Bee-keeping, 1867, by D.L. Adair

・Essay on bee keeping , 1869

・A Manual of Bee-keeping, 1875, by John Hunter

・The ABC and XYZ of Bee Culture, 1877, A.I.Root

 

フランソワ・ユーべル&著書の写真 準備中

ジェルゾン&著書の写真 準備中

ラングストロス&著書の写真 準備中

ルート&グリーニングスの写真 準備中

デーダント&アメリカン・ビージャーナルの写真 準備中

 

明治10年(1877)時点での海外の主なアメリカの養蜂器具 準備中

 

渡邉寛の異説につて 

 

 上掲の貞市次郎の関する著述の比較表の中で渡邊寛だけが異説を唱えていました。再度転載してみます。

 

 明治10年9月紀州蜜市翁の息貞市次郎を招きて蜜蜂係を申し付け、特に米国からイタリアン種をも輸入して内外蜜蜂の比較試験を為さしめた・・・

 

 この記述は最初、昭和7年出版の最新実利養蜂の経営」に登場し、その後、昭和25年出版の「実験50年養蜂経営の実際」、昭和49年出版の近代養蜂」と引き継がれ現在に至っています。その間、各書とも改訂や増補はあったのですが、訂正されることはありませんでした。この記述には、どのような根拠があるのでしょうか。どのような史料があるのでしょうか。筆者は、もしかしたら何か根拠や史料が存在するかもしれないといろいろ調べてきましたが、現段階では、その説を支持するものは何もありません。本稿で検証しましたように、市次郎の上京は明治8年、明治9年12月までの勧業寮の飼育試験は日本蜂で、市次郎の帰郷後の明治10年3月頃から西洋蜜蜂の飼育試験が始まりました。ですから、市次郎はこれには携わらなかったのです。

 

 市次郎の上京した明治8年には渡邊寛はまだ生まれていません。渡邊寛の誕生は明治17年(1884)7月12日です。24歳になった渡邊寛は明治40年2月22日に和歌山の2代目蜜市を訪ね、日本蜂の買い付けをしました。2代目蜜市貞房吉は市次郎の妹たかの入り婿です。その晩は囲炉裏を囲んで養蜂話で盛り上がったという記述が「ある養蜂家の生涯」にあります。以下のような記述です。

 

 その晩は藁灰の火桶を囲んで、先代蜜市翁の苦心談をきかせてもらうことができた。初代蜜市は宮内省勧業寮の養蜂係などをやった閲歴もあり、話は大いにはずんで・・・ (p21)

 

 ここでは、上京したのは市次郎ではなく父市右衛門だったことになっています。また勤務先が宮内省勧業寮と言われていますが、正しくは宮内省ではなく内務省です。これらは、2代目蜜市貞房吉の記憶間違いや、「ある養蜂家の生涯」をまとめた力富千蔵に、この場の話を語った渡邊寛にも混乱や知識不足があったと思われます。ここまで、混乱しているとどんな話があっても不思議ではありません。この時に、それが明治10年9月だったとかいう話もあったのではないかと筆者は考えています。

 

 27年後の昭和7年、「最新実利養蜂の経営」の中に、2代目蜜市から聞いた感動的だった話から明治10年9月と言う日付けが記述されたのではないかと思います。上京したのは蜜市ではなく市次郎に正されていますが、西洋蜜蜂飼育に携わったとの勘違いあるいは思い違いがあります。

 

 蜜市一家についての詳細がわかる「草莽の農聖蜜市翁小傳」が3代目蜜市の貞松一郎によって発行されたのは昭和34年でした。これに含まれた史実は明治期の日本養蜂の解明になくてはならないものです。最新実利養蜂の経営」が出版された昭和7年以前にこの書があったら、「実験50年養蜂経営の実際」が出版された昭和25年以前にこの書があったら、渡邊寛の記述も別なものになっていたに違いありません。

 

 

渡邉寛のもう一つの勘違いにつて 準備中