9)日本近代養蜂の父青柳浩次郎


 前章で詳しく見ました「養蜂改良説」の著者で農学博士の玉利喜造の教え子に山梨県出身の青柳浩次郎と言う21歳の青年がいました。玉利喜造から、アメリカの近代農業技術や近代養蜂技術を学ぶ弟子的存在でした。青柳浩次郎は玉利喜造の研究を引き継ぎ、日本の近代養蜂の礎を築いたにもかかわらず、その偉業が現代ではほとんど語られることがないばかりか、むしろ抹殺されるような動きさえありました。”日本近代養蜂の父”をいつの間にか他の人が自分の肩書にしている始末です。本章では史料を精査して、日本近代養蜂の父青柳浩次郎の実像を明らかにしたいと思います。

 

 

 まずは、その著書を手がかりに青柳浩次郎の経歴解明をすすめたいと思います。

 

 

青柳浩次郎著書一覧

 

初版出版年

農業分野

養蜂関係

明治25年(18929

果樹栽培の勧誘(記事執筆)

 

明治26年(1893)

通俗果園法

 

明治27年(1894)

耕耘施肥の手引

桑葉萎縮病論

 

明治28年(1895)

日本農業新誌(農業雑誌)編集発行

蜜蜂飼養法(口述)

明治29年(1896)

日本農業新誌(農業雑誌)編集発行

蜜蜂

明治30年(1897)

日本農業新誌(農業雑誌)編集発行

農用動植物標本採製法

 

明治31年(1898)

日本農業新誌(農業雑誌)編集発行

果樹栽培法

養蜂夜話

明治32年(1899)

日本農業新誌(農業雑誌)編集発行

農業世界(農業雑誌編集発行

 

明治33年(1900)

農業世界(農業雑誌編集発行

接木の手引き

 

明治34年(1901)

農業世界(農業雑誌編集発行

 

明治37年(1904)

 

養蜂全書

明治40年(1907)

 

養蜂講義

明治42年(1909)

 

青柳式蜂王養成法

明治45年(1912)

 

養蜂案内

大正 2年(1913)

 

実験養蜂問答

大正 3年(1914)

 

養蜂採蜜管理法

大正13年(1924)

 

実験四十年養蜂実務講話

昭和  6年(1931)

 

養蜂の真髄

昭和  6年(1931)

 

革新増収連合養蜂法

  

これらの著書から、青柳浩次郎は明治33年頃まで農業分野の著者及び編者として出版に携わり、、それ以降は養蜂分野に専念したことがわかります。

 

 

青柳浩二郎と青柳浩次郎について

 

―>2書の写真 準備中

 

 日本の古書を調べていくと青柳浩二郎という人物がでてきます。明治26年出版の「通俗果園法」の著者及び明治27年出版の「桑葉萎縮病論」の筆者です。「通俗果園法」には玉利喜造が校閲者になっています。玉利喜造の身近に青柳浩次郎と青柳浩二郎の別人がいたとは考えにくいですので、同一人物と結論して間違いないと思います。国会図書館の著者標目でも下記のように 「青柳浩二郎」と「青柳浩次郎」は同一人物とされています。

 

タイトル

通俗菓園法:附・蔬菜改良法

著者

青柳浩二郎 著

著者標目

青柳浩次郎 1868-

 

タイトル

桑葉萎縮病論

著者

栗原信近 述

著者

青柳浩二郎 記

著者標目

栗原信近 1844-1924

著者標目

青柳浩次郎 1868-


(国会図書館の著者標目より)

 

 

 青柳浩次郎の経歴と実像に迫る重要な手掛かりは著書に記された住所です。

 

青柳浩次郎の著書と住所一覧

 

出版年

著書

出版元

住所

明25(1892)

果樹栽培の勧誘(記事執筆)

博文館

山梨県西八代郡高田村

明26(1893)

通俗果園法

博文館

山梨県

明27(1894

耕耘施肥の手引筆記

桑葉萎縮病論筆記

石川安太郎

山梨県西八代郡高田村31番地

明28(1895)

 

日本農業新誌(農業雑誌)編集発行

 

蜜蜂飼養法(口述)

農業社

 

 

埼玉県内務部

東京市赤坂区溜池町二番地

東京市本郷区駒込上富士前2番地

 

明29(1896)

 

日本農業新誌(農業雑誌)編集発行

蜜蜂

農業社

東京市本郷区駒込上富士前2番地

明30(1897)

日本農業新誌(農業雑誌)編集発行

農用動植物標本採製法

農業社

東京市本郷区駒込上富士前2番地

明31(1898)

日本農業新誌(農業雑誌)編集発行

果樹栽培法

養蜂夜話

東京農書館

東京市小石川区上富阪町7番地

明32(1899)

日本農業新誌(農業雑誌)編集発行

農業世界(農業雑誌編集発行

東京農書館

 

農業世界社

東京市小石川区上富阪町7番地

 

東京市小石川区上富阪町7

明33(1900)

農業世界(農業雑誌編集発行

接木の手引き

農業世界社

東京市小石川区上富阪町7

明34(1901)

農業世界(農業雑誌編集発行

農業世界社

東京市小石川区上富阪町7番地

明37(1904)

 

養蜂全書

箱根養蜂場

神奈川県足柄郡湯本村湯本292番地

明40(1907)

 

養蜂講義

箱根養蜂場

神奈川県足柄郡湯本村湯本292番地

明42(1909)

青柳式蜂王養成法

箱根養蜂場

神奈川県足柄郡湯本村湯本292番地

明45(1912)

養蜂案内

箱根養蜂場

神奈川県足柄郡湯本村湯本292

大2 (1913)

 

実験養蜂問答

箱根養蜂場

神奈川県足柄郡湯本村湯本292

大3 (1914)

養蜂採蜜管理法

箱根養蜂場

神奈川県足柄郡湯本村湯本292番地

大7 (1918)

 

青柳式蜂王養成法

箱根養蜂場

 

神奈川県足柄郡湯本村湯本292番地

大13(1924)

 

実験四〇年養蜂実務講話

日本養蜂協会

 

記載なし

昭6 (1931)

 

養蜂の神髄:最新研究

日本養蜂協会

 

記載なし

昭6 (1931)

 

革新増収連合養蜂法

有誠堂

東京府世田谷町下北澤809番地

  

  上記著書から判明した青柳浩次郎の経歴は以下のようです。

 

1)出生は明治元年(1868)

 

 国会図書館の著者標目で出生は1868年になっていますが、他の史料も探しています。

 

2)出身は山梨県士族

 

「明治29年出版の「蜜蜂」、「明治30年出版の農用動植物標本採製法」、「明治31年出版の果樹栽培法「養蜂夜話」の著者肩書に“山梨県”とあります。これはなにを意味するのでしょうか。もちろん出身地を意味しているというのもあります。が、もっと別の意味があります。それは“山梨県士族”という意味です。すなわち元武田の家臣を意味しています。当時の他の著者の肩書には“鹿児島県士族”と言いうような表記が見られますが、青柳浩次郎は 単に“山梨県”とだけ書きました。その後明治33年からの著書及び前記著書の改訂版では、これさえも外しました。青柳浩次郎の人柄の一面がうかがわれます。青柳家の系図は現段階では詳細は不明ですが徳川幕臣に山梨出身の青柳氏がいないことから、武田信玄後に江戸に上らず帰農したものと思われます。

 

「養蜂夜話」の第3話“余の始めて蜜蜂を得たる事”の中に次のようにあります。 

 

 或時、家僕が走り来りて余に蜜蜂が来て或る所の柿の樹へ集まった事を告げた  (p6)

(中略)9里の道を家に帰り家僕を連れて再び翁の至りた (中略)夫れから其巣箱を家僕に担わしめ徐々と9里の道程を歩し家に帰りた  (p9)

 

 これは青柳浩次郎が10歳頃の話ですが、筆者が注目しているのは青柳浩次郎の家には家僕、すなわち下男がいたという点です。青柳浩次郎の家は単なる農家ではなく下男がいるような家でした。明治10年頃、山梨県で下男がいるような青柳姓の家は特定できるでしょうか。できたのです!! 筆者はこの家が青柳浩次郎の生家だと推定していますが、取材でいろいろと明らかになると思います。

 

ーー>出生地について準備中

 

 3)10歳頃(明治10年頃)初めて蜜蜂を飼う 

 

 青柳浩次郎が初めて蜜蜂を飼ったのは10歳頃です。45歳の時に出版した「養蜂夜話」の第3話“余の始めて蜜蜂を得たる事”で、その時のことが詳しく語られています。「養蜂夜話」は現在まで保存されているものは非常に少なく国会図書館でさえ所蔵していません。以下に全文転載してみます。

 

――>「養蜂夜話」写真準備中

 

養蜂夜話 第3話 余の始めて蜜蜂を得たる事

 

 余と云ふ余は甚だ慾の深き人で何か資本なしで金の儲かる事があるだろうと常に考へて居ったか蜜蜂を飼ふは食料を與へずして良しきものなれば之を飼ふは甚だ面白からんと考へた。斯る発明はしたものの蜜蜂を手に入れることが出来ぬ。吾が生地の近傍にては蜜蜂を飼ふ人が一人もない。余はまだ蜜蜂の顔も見た事もない位で只談しに聞いたのみです。然し六七里隔てたる山家にては多少蜜蜂を飼養してあるものもある事を聞きたか未だ之を得る方法に窮した。何故となれば余はまだ幼少の時分で少々づつ小使銭を貰ふてある時分なればこれを購入する金がないです。尤も六七里の所へ行き蜜蜂を購い人を雇ふて之を負はせ帰るには少なく十圓位の金は必用です。然し未だ利益のあるものやら或は全く失敗に帰するやを危ぶむものを父兄に請ふて其金を出して貰ふも甚だ好まなかった。故に止むを得ず時を待って居った。或る時家僕が走り来りて余に多くの蜜蜂が来て或る所の柿の樹へ集まった事を告げた。我は家兄を強いて共に急ぎ行きて見た時は己に其近隣の人が酒樽を持って之を取らんとして居ったから余は家兄に乞ふて之を譲り受けんとし漸く少しばかりの禮をして之を譲り受けた。此時余の喜びは殆んと狂する許りでした。夫から酒樽へ蜂を入れ駆けて我家に帰り之を軒下に下げた。樽の穴を明けると蜜蜂は出入を始めて居る。有り難し天の予み與へしものと喜んで終日其傍を離れません。翌日になりて見ると蜂は多く死蜂を担ぎ出す。予は不審に堪へぬが其儘にしてあると午後三時頃になると蜂は悉く出てて遂に其近傍の木に塊りを為したが蜂の数は昨日より至て少ない。余は驚いて其出てきたる蜂を再び樽の中へ入れんと其樽を下して中を改めると死蜂は中に堆く始んと全数の十分の七は死んだ。止むを得ず樽の中を掃除し蜂群を再び入れて是れで逃げるも止まるならん祈りし甲斐はなく翌日の午後四時頃になると蜂は再び噪ぎ出し今度は近所へ止らず何処ともなく逃げ去った。余は實に失望落胆した天の我に與へたる蜜蜂も情けなし七分は死し三分は逃げ去ってしまひました。余は此時より一層蜜蜂を飼養する念を増した。されど蜂を得る事が出きず空しく月日を送りました。或時栗原と云へる翁を訪ふた此人は我縣下屈指の事業家であったが今は隠遁して農業に従事して居り蜜蜂も数箱飼養して居りた。余は如何にしてか一箱を得んとの思ひは燃ゆる様なれと幼少の時分之を請求する事が口から出兼ねて只ムジムジとして居りたが大胆にも蜜蜂の話しを仕掛け熱心に蜜蜂の飼方を質問したのは翁の我熱心を察して一箱を譲られん事を祈りたのです。翁は余に蜜蜂を飼養してあるやを問ふた余は此時なりと告ぐるに實を以てしたら翁は遂に余に一箱を恵くまん事を言い出した。余は喜んで一言の辞退もせずに貰ひ受けた。然し其の家と我が家とは九里以上隔ててあって自ら之を持ちて帰る事が出来ぬから直ちに仕度して九里の道を家に帰り家僕を連れて再び翁の家に至りた。翁は余に其の巣框を引き出して見せた其時蜂は怒りて我を刺さんと顔のあたりを飛び廻りた。余は我慢して居れと我慢しきれす少しく逃げたら翁は笑ふて夫れては到底蜂飼ひにはなれぬと冷笑した。夫れから其巣箱を家僕に担はしめ二日を費やして徐々と九里の道程を歩し家に帰りた。其時の余の喜ひは如何程てあったか余なから知らぬ。是れか我の初めて蜜蜂を得た履歴てあります。我は翁の厚意を決して今に忘れません。 (句読点筆者、帰る、帰する、駆けて、担ぎ、全数、何処、落胆、大胆、辞退、担はしめは旧漢字に変換出来ず新漢字になっています。)

 

栗原翁について

 

 青柳浩次郎の少年時代に蜂群を恵んでくださった栗原翁なる恩人を歴史上で特定できます。栗原翁は栗原信近のことで栗原梧園とも称し、栗原翁、梧園翁とも称されています。

 

 栗原信近は弘化元年9月21日に巨摩郡穴山村(現在の韮崎市穴山町)に生まれている。豪農としての農業経営や父祖により受け継がれてきた家塾である「松の舎」の経営、村名主としての仕事などに奔走する中で、明治維新を迎え、戸長、区長などを務めていた。維新後の山梨県内においては、県令藤村紫朗の殖産興業政策の促進を図る状況の中で、金融機関として第十国立銀行、交通運輸として富士川運輸会社、農業等の産業興隆を図るための農産社の設立など、明治初期における山梨県内の殖産興業発展に大きな役割を果たし、大正13614日に没している。栗原信近は梧園とも号している。   (山梨県に関わる歴史・地理の「峡陽文庫」より転載)

 

――>栗原信近写真準備中

 

栗原信近(山梨中銀金融資料館書所蔵

 

 栗原信近の生涯をまとめた著書に佐藤森三著「栗原信近の生涯」があります。昭和45年(1970)刊行本は絶版となり、平成27年(2015)に復刻版が出ました。

――>「栗原信近の生涯」写真準備中

 

栗原信近の生涯(佐藤森三著、栗原信近翁胸像建設委員会、1970)

 

 栗原信近関係の史料はご遺族によって山梨中央銀行に寄贈され山梨中銀金融資料館にて所蔵されています。平成29年11月1日(水)~12月27日(水)には、山梨中銀金融資料館企画展「『山梨近代化の父栗原信近展』~山梨の発展に尽くした生涯~」が開催され、筆者も閲覧させていただきました。

 

 

――> 付7)青柳浩次郎の足跡を訪ねて に「栗原信近展」の写真を掲載しています。

 

 

九里の道のりについて

 

 養蜂夜話に以下のようにあります。

 

 

 其の家と我が家とは九里以上隔ててあって自ら之を持ちて帰る事が出来ぬから直ちに仕度して九里の道を家に帰り家僕を連れて再び翁の家に至りた。(中略) 夫れから其巣箱を家僕に担はしめ二日を費やして徐々と九里の道程を歩し家に帰りた。

――>鳥地図準備中

 

 栗原翁の家と青柳浩次郎の家は9里(約36km)も隔ててあり、2日掛かりで蜂箱を運んだのでした。両方の家を史料から特定できます。栗原信近の家は山梨県北巨摩郡穴山村、青柳浩次郎の家は山梨県西八代郡高田村で甲府盆地の北の端と南の端にありました。極端な山道はないものの、曲がりくねった石ころ道を藁草履で36km歩くのは大変なことでした。

 

 

4)明治16年、東京農林学校(現在の東京大学農学部) に入学

ーー>予科2年制、本科3年制 準備中

 

5)明治21年~24年、玉利喜造研究室の助手として養蜂に従事 / 山梨県西八代郡高田村にて果樹園始める  

ーー>準備中

 

――>玉利喜造先生伝 <息子の名=幸次郎>について 準備中

――>玉利喜造先生伝写真 準備中 

 

6)明治25年~、小笠原島よりイタリアン種を取り寄せ静岡県の養蜂場にて繁殖。イタリアン種の全国普及活動を開始

 

ーー>準備中

 

 

7)明治26年(26歳) 博文館の農業教育・啓蒙書シリーズ「寸珍百種」で菜果園主人として「通俗果園法」を執筆。

 

博文館について 

 

 明治20年(1887)に大橋佐平によって東京市本郷区弓町に創業され、教育・啓蒙目的の書籍を発行すると共に、取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業し、明治期最大の出版社となりました。

 

 

農業書執筆陣について 

 

明治25年(1892)の年頭に宣言された出版方針に以下のようにあります。

 

 大に教育及実業上の図書出版事業を営まんとす。依て多く教育上農業上の学士名家を招聘して其執筆を依嘱し該事業の参画を委托せり。 (句読点筆者)

 

 明治25年に始まった2つのシリーズ「教育実用農業全書」と「寸珍百種」の内容と担当執筆者は次の写真のようです。

 

――>写真準備中

 

 菜果園主人について 

 

通俗果園法」の緒言に以下のような記述があります。

 

 予は元来果樹を好み茅屋の周園は悉く果樹を栽植して寸地尺土の空所なし。而て朝夕各果樹を見廻り其生育を察し其発達を見るを以て此上もなき愉快とせり。 (句読点筆者)

 

 屋敷内ではなく、屋敷の周園に果樹を植えているとあります。ですから、庭木程度の果樹ではなく、かなりの広さの果樹園が想像されます。明治25年1月5日博文館発行の「日本農業新誌」p34に 「果樹栽培の勧誘」という記事が掲載されています。 執筆者 は 「甲斐国西八代郡高田村 豊果園」となっていますので、青柳浩二郎です。山梨県西八代郡高田村の実家周辺の何ヘクタールもの畑に種々の果樹が植えられていたことが想像できます。日本農業新誌では「豊果園」、寸珍百選シリーズでは「菜果園主人」、女性向け農業雑誌田園婦人では「聖菜園主人」として執筆しています。

 

8)明治27年 栗原梧園の講演録「耕耘施肥の手引」と「桑葉萎縮病論」の筆記を担当。

ーー>解説 準備中

 

 

9)明治28年、博文館から「日本農業新誌」の編集発行を引き継ぐ 

 
「日本農業新誌」について

 

「日本農業新誌」は、明治期の三大農業雑誌の一つです。明治11年(1878)から同13年(1880)まで駒場農学校で学び、後に東京農業大学の初代学長に就任した横井時敬が主宰していた『産業時論』という雑誌を博文館が引き継ぎ、改題したのが「日本農業新誌」です。

 

 大に教育及実業上の図書出版事業を営まんとす。依て多く教育上農業上の学士名家を招聘して其執筆を依嘱し該事業の参画を委托せり。

 

との方針で農業上の学士名家に執筆依頼をしました。青柳浩次郎は明治25年1月5日発行の「日本農業新誌」第1巻第1号に「豊果園」名で「果樹栽培の勧誘」を執筆しています。また、寸珍百選シリーズでは「菜果園主人」として通俗果園法」を執筆しています。

 

「日本農業新誌」は、明治25年(1892)1月から同27年(1894)12月までは博文館から刊行されましたが、博文館が総合雑誌『太陽』を刊行することとなり、「日本農業新誌」は農業社が引き継ぎました。この農業社社主が「豊果園」、「菜果園主人」として博文館執筆陣の一人、青柳浩次郎でした。

 

 農業社(東京市赤坂区溜池町二番地)による、最初の発行となった明治28年1月5日発行の第4巻第1号p72に「謹で白す」として、次のように述べられています。

 

 産業時論以来農界に愛顧せられたる日本農業新誌は、博文館代ゆるに「太陽」を以てするの結果として廃刊に決したり。此惜むべき好雑誌を失ふは、農業に取りて一大機関を失ふなり。我社不肖なれとも農界の為めに犬馬の労を致さんと試むるもの、焉んぞ袖手して之を傍観せん。遂に其事業を継続して、日本農業新誌の発刊所となりぬ。

 

 

農業社について

 

 農業社は、青柳浩次郎が経営する、農書、農具、肥料、種苗等を扱う農業専門の商社でした。

 

――>広告、カタログ写真 準備中

ーー>28年、埼玉県内務部の取材 準備中

ーー>29年、「蜜蜂」を出版。備中 

 

 

10)30、フランス、アメリカ視察出発

 

ーー>記述、写真準備中

 

 

11)31年、東京市小石川区上富阪町7に「東京農書館」を置く。

 

ーー>「日本農業新誌」の編集発行 準備中

ーー>「養蜂夜話」を出版 準備中

 

 

12)明治33年「日本農業新誌」を改名し、農業世界」とし編集・発行。

 

ーー> 準備中

 ーー>農業世界」写真 準備中

 

 

     

 

 

                 以下準備中

 

 

 

 

 

 

 

 

明治~昭和初期の養蜂書  (初版出版年順)

 

ーー>解説準備中

 

・養蜂改良説、玉利喜造、明治22.12

・蜜蜂飼養法、花房柳条 著 (青木嵩山堂, 1893M26)

・養蜂実験問答、山口富造 著 (菁々堂, 1894M27)

・漆樹栽培法・山藍栽培法・蜜蜂飼養法(埼玉県内務部, 1895M28)

・蜜蜂、青柳浩次郎、明29,3

・養蜂案内青柳浩次郎、明治30年(1897)

・養蜂夜話、青柳浩次郎、明治31年(1898)

・蜜蜂飼養法附採蜜法、井上竜太郎 著 (耕牧園, 1899M32)

・養蜂書、フランク・ベントン 著, 八鍬儀七郎, 上村勝爾 訳 (早稲田農園, 1903M36)

・養蜂実験説、西田敏一、明36、

・養蜂全書、青柳浩次郎、明37.1

・養蜂と趣味、加藤今一郎 著 (興産養蜂場, 1906M39)

・養蜂実用新書、加藤今一郎 著 (興産養蜂場, 1906M39)10

・蜜蜂飼養法、前田邦寧 著 (育成舎, 1906M39)12

・実験蜜蜂飼養法、益田芳之助 著 (学農社, 1907M40)

・実験養蜂新書、吉田弘蔵 著 (杉本翰香堂, 1907M40)

・養蜂講義、青柳浩次郎、明40,9

・最新蜜蜂飼育法、 駒井春吉  (読売新聞社1907M40、10)

・養蜂指針、原富太郎、中野昂太郎 著 (西尾盛文堂, 1908M41)11

・富国全書蜜蜂飼養法、花房柳條、明41

・青柳式蜂王養成法、青柳浩次郎、明42、1

・最新養蜂講義録、荘島熊六述 (島原婦人会, 1909M42)

・通俗実験蜜蜂養法、益田芳之助 著 (和歌山養蜂研究所, 1909M42)

・最新養蜂講義録、荘島熊六述、明42,10

・ミツバチ、関養蜂園、明43、6

・養蜂案内、小島光真 著 (小島養蜂園, 1911M44)  11

・養蜂家必携、永沢盛、明45,5

・養蜂講義、和田台平命、明45

・蜜蜂飼育法、駒井春吉、明45

・養蜂大意、宮野誠治 著 (養蜂資料社, 1912M45)

・実験養蜂問答、青柳浩次郎、大正 2年(1913

・実用養蜂書、駒井春吉 編 (明文堂, 1913、大2)

・業務案内、駒井春吉、大2

・養蜂大鑑、駒井春吉、野々垣淳一、大2

・養蜂大辞典、駒井春吉、野々垣淳一、大2

・蜜蜂管理法 野島次郎 述(矢嶋次郎、1913、大2)、4版

・蜜蜂飼養案内 松井克多郎 編(松井勝太郎、1913、大2)

・最信養蜂秘訣、渡部義正 著、渡部義正、大正2  

・養蜂採蜜管理法 青柳浩次郎、大正 3年(1914)

・自然人口蜂王養成術、加藤今一郎、大3

・最新実験蜜蜂の飼い方、北島清太郎、大3 

・養蜂入門、野々垣淳一、大3

・応用管理養蜂12ヶ月、諏訪末吉。大6

・実験養蜂12ヶ月、野々垣淳一、大6

・実験養蜂蜂蜜多収法、野々垣淳一、大7

・実験養蜂経営法、野々垣淳一、大8

・自然人口蜂王養成法、野々垣淳一、大10

・実験四十年養蜂実務講話、青柳浩次郎、大正13年、1924

・養蜂の真髄、 青柳浩次郎、昭和 6年、1931

・連合養蜂法、青柳浩次郎、昭和  6年、1931