小笠原島の歴史年表


 養蜂の歴史は明治政府の産業政策や小笠原島の殖産開拓の歴史と密接に関わっています。ですから、小笠原島の歴史を知れば養蜂の歴史もより深くわかります。一般史に関しては以下の文献から引用及び転載をし、日本養蜂史に関する事項を追加しました。

 

小笠原諸島異国船来航記(大熊良一、近藤出版社、昭和60年(1985) 

○国史大辞典第2巻(うーお)(国史大辞典編集委員会、吉川弘文館、昭55年)

○小笠原の自然(文部省・文化庁、昭45年(1970)

離島振興三十年史(離島振興30年史編纂委員会編、全国離島振興協議会、平成元年、2年)

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1543(天文12)年

・スペイン探検航海者のルイ・ロベツ・ド・ヴィラロボスがマニラより帆船「サン・ジャン号」(ベルナルド・トルレ船長)を送り、西太平洋の調査をさせる。ボニン諸島(小笠原諸島)のうち火山列島=ロス・ボルカネスを遠望する。   (小笠原諸島異国船来航記)

・硫黄島の発見は、イスパニアの第4次東洋遠征艦隊による火山列島の遠望が最初といわれる。     (離島振興三十年史)

 

1593(文禄2)年

・信州深志城主、小笠原貞頼が南海を探検航海し、無人島群(小笠原諸島)を発見上陸し、日本国領土の標木を建て、物産を持ち帰り、家康に献上。家康はこの島々に小笠原島と命名し、貞頼に与えた(伝説)。   (小笠原諸島異国船来航記)

・伝承にある小笠原貞頼は、おそらく架空の人物であると思われる。  (小笠原諸島異国船来航記)

・「小笠原島新誌」などによると、小笠原貞頼は長時の曾孫で、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三代に仕え、のち家康の信任を得、伊豆の奉行となり、無人島開発を許されて南海に航し、文録二年(1593)ついに三島を発見して小笠原島と命名したという。しかし、このことは確かな史料にみえず、真偽が疑わしい。貞頼の名は「小笠原家譜」「寛政重修諸家譜」などにみえない。      (国史大辞典)

 

1639(寛永16)年

・オランダ東インド会社の総督が金銀島の探索のためタスマンおよびクワストを派遣し、無人島と同定される島々を発見。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1668(寛文8)年

・阿波の国海部郡浅川浦の勧右衛門ら7人が母島に難破した記録がある。  (離島振興三十年史)

 

1669(寛文9)年

・阿波の国海部郡浅川港の船主勧右衛門、水主船頭安兵衛、紀州藤代の荷主長左衛門ら無人島に漂着、勧右衛門は島で死亡、長左衛門らは越年し、翌年伊豆下田に帰還。その旨を代官書に届出る。     (小笠原諸島異国船来航記)

・阿波国浅川の船頭勧左衛門、荷主長左衛門一行がこの年出港、翌年母島に漂着、父島を経て下田に帰りついた。    (小笠原の自然)

 

1670(寛文10)年

・日本人による信ずべき最古の文献は「紀伊蜜柑船漂流記」(「寛文十年無人島漂流記」)である。    (国史大辞典)

 

1675(延宝3)年

・伊豆代官伊那忠易(兵右衛門)、幕命により長崎の船主嶋谷市左衛門をして伊豆南方の無人島(小笠原諸島)の調査探検をさせる。嶋谷らは島々を命名して地図、海図を作成。幕府に報告する。    (小笠原諸島異国船来航記)

・幕府が伊豆の代官に命じて巡検調査を行う。長崎の船頭嶋谷市左衛門によるこの公式派遣隊は「嶋谷巡検隊」と呼ばれた。   (小笠原の自然)

・長崎の島谷市左衛門は幕命を受け20日間にわたり諸島を巡検、各島実測図を作り父島・母島の島名を名付け、動植物などを持ち帰って幕府に献上した。   (離島振興三十年史)

 

1702(元禄15)年

・スペイン船「ヌエストラ・セニョーラ・ロザリオ」が西ノ島を「ロザリオ島」と命名。   (離島振興三十年史)

 

1779(安永8)年

・イギリスのキャップテン・クック隊が硫黄島を探検。   (離島振興三十年史)

 

1785(天明5)年

・幕府、無人島の巡検調査を八丈島の吏、服部源六、山下与惣らに命ずる。一行は八丈島、八重根を出帆し、島々に達したが暴風に逢い四国に漂流し、この企ては中止となる。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1785(天明5)年

・林子平「三国通覧図説」出る。このうちの「無人島」の地図と記事は刊本としてはじめて世に紹介され、注目をひく。    (小笠原諸島異国船来航記)

 

1789(天明9)年~1800年

・幕府、植物学者田村元長に対して無人島の調査を命じ、元長、八丈島に来たが、天候悪く実現せず。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1801(享和1)年

・イギリス軍艦「ノーチラス」が西ノ島を「ディスアポイント島」と命名。  (離島振興三十年史)

 

1810(文化7)年

・高橋景保作「新訂万国全図」(無人島、一名小笠原島を図示)上刻される。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1815(文化12)年

・伊能忠敬の「大日本沿海実測地図」完成。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1823(文政6)年

・米国捕鯨船「トランジット号」(コッフィン船長)が二見港に達す。現在の沖港にも達し、母島をコッフィン島と命名した。   (離島振興三十年史)

 

1824(文政7)年

・9月、英国の捕鯨船トランシット号が、外国の船としては初めて小笠原に上陸。  (小笠原の自然)

・イギリス捕鯨船トランシット号(船長アメリカ人のコッフィン)ボニン諸島の南島(母島)に来る。外国の諸著書には1823年とある。この島をコッフィン島と命名する。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1825(文政8)年

・イギリス捕鯨船サプライ号父島に寄泊上陸する。幕府、異国船打払いを出す。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1826(文政9)年

・林子平の「三国通覧図説」中の無人島(小笠原諸島)の記事、東洋学者クラブロートにより、論文集「アジア関係論叢」(パリ刊)中にムニンシマとして紹介評論する。イギリスの捕鯨船ウイリアム号父島で難破する。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1827(文政10)年

・英国の海洋調査船ブロッサム号(ビーチー艦長)が訪島。   (小笠原の自然)

・イギリス軍艦ブロッサム号、小笠原諸島(無人島)の父島(ピール島)に寄泊。艦長ビーチーらこの諸島を調査し、島名、地名を命名する。  (小笠原諸島異国船来航記)

・英国官船「ブロッサム」(ビーチー艦長)は諸島一円を測量、父島をPeelslandと命名。   (離島振興三十年史)

 

1828(文政11)年

・ロシアの探検船セニアビン号(リュトケ艦長)が訪島。    (小笠原の自然)

・ロシアの探検航海者リュトケの乗る軍艦セニアビン号、その世界周遊の途中、小笠原諸島(無人島)の父島に寄泊、上陸調査をする。この年シーボルト事件起こり、シーボルトは追放される。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1829(文政12)年

・パリ大学の東洋学者レミュザ、その著「新アジア雑纂」の中で無人島(小笠原諸島)のことを紹介評論する。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1830(天保元)年

・セボリー、ミリンチャンプ、マザロら最初の白人系移住者サンドウィッチ(ハワイ)から現地人をつれて小笠原諸島の父島(ピール島)に渡来する。  (小笠原諸島異国船来航記)

・ナサニエル・セボレー、マテオ・マザロ、リチャード・ミリンチャンプ、チャールズ・ジョンソン、アルディン・チャピンの欧米人5人とカナカ系の人々20人が初めて組織的に定住・開拓を始めた。 (離島振興三十年史)

 

1832(天保3)年

・林子平の「三国通覧図説」、東洋学者クラブロートにより完訳出版(パリ)される。この年シーボルトの「日本」Nippon刊行始まる。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1834(天保5)年 

・アメリカの帆船ボランティア号、ロイド港(二見湾)に寄泊する。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1835(天保6)年

・1831年に父島にやってきたポルトガル人ジョーキン・ゴンザレスの一家7人が母島に入植在住したとされている。   (離島振興三十年史)

 

1836年

・6月、米国軍艦ピーコック号が寄港。住民たちが沢の流れの両側に沿ってかなり奥地にまで耕地を広げていると記録。住民は上記のほかタロイモや小麦も耕作。  (小笠原の自然)

・アメリカ軍艦ピーコック号(通商弁務官ロバーツ搭乗)、ボニン諸島の父島に寄泊、上陸調査する。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1836年 

・6月、英国軍艦ラーレイ号が寄港。タバコの成長がよいと記録。 (小笠原の自然)

・イギリス軍艦ラーレイ号(艦長キン)、父島の二見湾(ロイド港)に寄泊、5週間留まる。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1838(天保9)年

・伊豆代官羽倉外記伊豆七島巡査に当り、小笠原諸島(無人島)を巡検しようとするが、果たさず。幕命による調査は、文久元年(水野調査隊派遣)まで停止さる。イギリス、スループ型軍艦ラーン号(艦長ブレーフ)、ロイド港(父島、二見湾)に寄泊する。 (小笠原諸島異国船来航記)

 

1839(天保10)年

・蘭学者のグループ(尚歯会)の高野長英、渡辺華山ら、小笠原諸島(無人島)に渡航をし、密貿易を行うという誣告のもとに逮捕される。いわゆる蛮社の獄。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

 1840(天保11)年 

・陸奥国気仙郡小友浦の船頭三之丞ら小笠原諸島(無人島)に漂着六十余日滞在して帰国する。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1841(天保12)年

・土佐国吾川郡宇佐浦の漁夫5人足摺岬沖で大風に遭い、無人島の南島母島に漂着し、アメリカの捕鯨船に助けられ帰国する。  (小笠原諸島異国船来航記

 

1851(嘉永4)年

・4月、英艦エンタープライズ号が寄港。ジャガイモ、カブ、ヤギが販売品に加わった。  (小笠原の自然)

・イギリス軍艦エンタプライズ号(艦長コリンソン)、小笠原諸島(無人島)に寄泊する。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1853(嘉永6)年

・ペリー提督、日本訪問の途次、沖縄(琉球)の那覇港よりサスクェハンナ号に乗り、サラトガ号を従えて6月14日、小笠原諸島の父島(ピール島)に入港、ここで4隻の艦隊を集結編成して長崎に向かう。10日、アメリカ軍艦プリマス号(艦長ケリー)二見港(ロイド港)に寄泊し、さらに南島を巡航する。 (小笠原諸島異国船来航記)

・米国東インド艦隊(ペリー司令官)が日本への途次、沖縄から来島し石炭補給所の敷地を購入。  (離島振興三十年史)

・ペリー提督が日本来航の途次沖縄から父島二見港に寄港、貯炭所用地を買収し、セボリーを植民政府長官に任命した。 (国史大辞典)

 

1857(安政4)年

・英国人ジェームス・モットレイ、母島に入植。 (離島振興三十年史)

 

1860(万延1)年

・幕府、小笠原諸島(無人島)調査の方針をたてる。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1861(文久元)年

12月、外国奉行水野忠徳、目付服部帰一を主班とする全員90余名の小笠原開拓調査隊をのせた軍艦咸臨丸、父島の二見港に入港。一行にアメリカ新帰朝の中浜万次郎(ジョン・万次郎)加わる。水野忠徳、服部帰一ら小笠原諸島が日本属島であることを明らかにし、在住外国人移住者に伝達する。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1862(文久2)年

・3月、小笠原諸島の現地調査報告のため、水野忠徳一行帰府する。その間、小花作之助(作助)らは現地父島にとどまる。4月、「小笠原新ばりの記」の碑を扇浦に建て、幕府の庁舎を現地に建設する。諸島発見以降の漂流者の幽魂を慰めるため、奥村の渓流の畔に「冥福」碑を建てる。幕府、伊豆代官江川英敏(太郎左衛門)をして移民を募集させ、8月、その第一移民を軍艦朝陽丸により父島に送る。  (小笠原諸島異国船来航記)

・幕府は小笠原開発のための移住策として、八丈島民のなかから移住希望者を募集、男23人、女15人を小笠原移民として咸臨丸で送ったのが日系移住者の最初となった。  (離島振興三十年史

 

1863(文久3)年

・中浜万次郎、越後の富豪平野廉造とはかり、壱番丸を艤装し、小笠原近海にて日本初めての様式捕鯨を行う。5月、閣老安藤信睦(信正)の辞任を境して、小笠原開拓事業を中絶する。幕府、朝陽丸を小笠原に派遣し官吏および移住民のすべてを引揚げさす。  (小笠原諸島異国船来航記)

・それまでの鎖国体制に風雲急を告げる情勢となり、前年の移住者の安全確保から幕府は朝陽丸を派遣、全員引き揚げさせた。  (離島振興三十年史)

 

1870(明治3)年

・谷腸卿、井口直助らを小笠原諸島におくり、現地調査を行い、開拓を政府に申請する。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1872(明治5)年

・寺島外務卿、小笠原諸島を版籍奉還に基づき新設された琉球藩の管轄にするよう太政官府に稟申する。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1873(明治6)年

・藤川三渓、小笠原諸島の開拓と捕鯨業に関する建白書を太政官正院に提出する。12月、岩倉具視、内務・大蔵・海軍・外務各省に対し、小笠原諸島開拓につき諮問する。米公使、小笠原諸島(ボニン諸島)の領有権を主張しない旨を、日本政府に伝える。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1874(明治7)年

・5月、小笠原諸島開拓に関する関係四省公議案なる。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1875(明治8)年

・9月、寺島外務、大久保内務、大隈大蔵、河村海軍の各卿輔連署して小笠原諸島に対し、調査員を派遣することを上申し、太政大臣三条実美裁可する。11月、田辺太一、小花作助ら小笠原調査隊を乗せ、工部省所属汽船明治丸横浜を出港する。イギリス領事ロバートソンを乗せて、イギリス軍艦カーリュー号、同じく小笠原に向かう。田辺・小花ら現地を調査し12月帰京する。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1876(明治9)年12月

・日本領として国際的な承認を得る。明治政府が開拓を始める。 (小笠原の自然)

10月、日本政府、小笠原諸島の開拓着手につき駐日各国公使に通達、国際的に日本領土としての主権認められる。12月、三菱汽船太平丸で小花作助父島に赴任し内務省出張所の仮庁舎を建設する。  (小笠原諸島異国船来航記)

・国際的にも日本領土となり内務省所管とし国は再び37人を移住させる。   (離島振興三十年史)

 

1877(明治10)年

11月、内務省出張所新庁舎を父島の扇浦旧幕府役所跡に新築移転設する。内務省大久保利通撰文、篆額の「開拓小笠原島碑」を新舎裏の丘上に建つ。外国人所有の外国通貨と日本通貨の交換事務を始める。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1878(明治11)年

・6月、父島に仮小学校を設く。10月、内務省勧農局出張所を父島北袋沢に設く。   (小笠原諸島異国船来航記)

 

1879(明治12)年

・斉藤清左衛門、南鳥島(マーカス島)を探検する。  (小笠原諸島異国来航記)

・8月に静岡県人斉藤清左衛門が日本人としては初めて南鳥島を視察する。  (離島振興三十年史)

 

1880(明治13)年

・小笠原諸島東京府管内に入り、内務省出張所は東京府出張所となり、藤森図高初代所長に任命さる。  (小笠原諸島異国船来航記)

・東京府管轄となって同府小笠原出張所が設置される。  (離島振興三十年史)

 

1881(明治14)年

・小笠原諸島で郵便業務開始。定期船通航を年2回より4回とする。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1882(明治15)年

・東京府出張所を大村に移転する。8月、内務省地理局出仕三浦清俊ら諸島の地理的実測を行う。11月、島民を勧請し、会議所を設置し、議員15名を公選する。この年、在住外国人、帰化希望者相次ぎ全員日本国籍をとる。  (小笠原諸島異国船来航記)

・欧米系、カナカ系住民のすべてが日本に帰化。  (離島振興三十年史)

 

1884(明治17)年

・東京府出張所の新庁舎落成、移転する。朝鮮独立党のクーデター失敗し、日本に亡命した金玉均、一時父島に身をかくす。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1886(明治19)年

11月、小笠原島庁設置され、島司を置くこととし、行政の各分野にわたり刷新拡充さる。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1888(明治21)年

・7月、島民の義捐により父島の中央道路竣工する。島庁編「小笠原島誌纂」成る。この年、渋澤栄一、製藍会社を小笠原島に設け藍の栽培をはかる。 (小笠原諸島異国船来航記)

・南硫黄島に男女3人の遭難者を発見。明治24年から定期船が年1回は南硫黄島近海を航海し遭難者の有無を確かめることになった。  (離島振興三十年史)

 

1889(明治22)年

・荒井義郎が硫黄採掘工夫10人を連れて硫黄島に入植。 (離島振興三十年史)

 

1890(明治23)年

・組合員総代川島卯八ら58名をもって父島製糖組合組織さる。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1891(明治24)年

・9月、硫黄列島の三島嶼、日本領土に編入され島庁の所轄となる。  (小笠原諸島異国船来航記)

・硫黄島に国標が樹てられ、日本への帰属が決定した。  (離島振興三十年史)

 

1896(明治29)年

12月に東京府人で東京禽獣会社南洋部長・水谷新六が帆船「天祐丸」で南鳥島を調査し、アホウドリ羽毛の採取及びカツオ漁業の採算ありとして母島から20人の労働者を移住させた。  (離島振興三十年史)

 

1898(明治31)年

・南鳥島、小笠原島庁の所管となる。  (小笠原諸島異国船来航記)

・7月、東京府告58号により「南鳥島」が命名され、同府小笠原支庁の管轄となった。  (離島振興三十年史)

 

1899(明治32)年

・新たな開墾が禁止され、造林事業が始められた。  (小笠原の自然)

・母島の石野平之丞が北硫黄島の東側斜面を拓くため移住  (離島振興三十年史)

 

1900(明治33)年

12月には南鳥島の人口が70人を超え水谷村が発足。  (離島振興三十年史)

 

1901(明治34)年

・石野平之丞が北硫黄島に自費で仮学校を開設。明治37年には石野村尋常小学校となる。  (離島振興三十年史)

 

1906(明治39)年

・硫黄島で仮学校による子弟教育を開始。大正2年には硫黄島に大正尋常小学校が設置された。  (離島振興三十年史)

 

1908(明治41)年

・明治40年に発せられて41年から施行された「沖縄県及島嶼町村制」(勅令第46号)は島々の自治の制限を明文化したもので、普通町村制との間に差別を設けた。大正9年に沖縄県が抜けて「島嶼町村制」と改称され、東京都八丈小島・青ヶ島・鳥島・北硫黄島・南硫黄島・中ノ鳥島・沖ノ鳥島・南鳥島の各島を対象に戦時中の昭和15年まで続いた。  (離島振興三十年史)

 

1910(明治43)年

・硫黄島でサトウキビ生産の試験栽培に成功。次第に卓越産業化した。  (離島振興三十年史)

 

1912(大正1)年

・硫黄島に合資会社久保田拓殖が創立される。  (離島振興三十年史)

 

1914(大正3)年

・硫黄島村が開基された。  (離島振興三十年史)

 

1919(大正8)年

・久保田拓殖は硫黄島拓殖製糖株式会社となった。会社金券を発行するなど土地所有や労働を規制し、組合組織と数次にわたり労働争議が起こった。  (離島振興三十年史)

 

1920(大正9)年

・父島要塞の建設準備が始められた。  (小笠原の自然)

 

1926(大正15)年

・7月、郡制の廃止にともなって、島庁は東京府小笠原支庁となる。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1927(昭和2)年

・戦艦「山城」で天皇が巡幸。  (離島振興三十年史)

・4月、東京府「小笠原総覧」を刊行。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1930(昭和5)年

・南鳥島住民の大半は島外に退去。  (離島振興三十年史)

 

1931(昭和6)年

・沖ノ鳥島、小笠原島庁の所管となる。  (小笠原諸島異国船来航記)

・7月6日、内務省告示第163号をもって沖ノ鳥島が東京府小笠原支の管轄区に編入、初めて日本領土として認知された。  (離島振興三十年史)

 

1935(昭和10)年

・5月、海軍水路部が南鳥島に軍艦「駒橋」を派遣し半地下式司令部を造営して駐屯を始めた。翌年には1,500mと600mの2滑走路が建設されるなど軍事要塞化した。  (離島振興三十年史)

 

1936(昭和11)年

・硫黄島拓殖製糖株式会社が硫黄島産業株式会社に改組された。  (離島振興三十年史)

 

1939(昭和14)年

・海軍飛行場が建設され、本土防衛戦略の要衝として位置づけられた。  (離島振興三十年史)

 

1940(昭和15)年

・島嶼町村制の適用により硫黄島村が設置された。  (離島振興三十年史)

 

1943(昭和18)年

・6月15日、硫黄島に対するアメリカ軍の初空襲があり、本土防衛のデッドラインとして急速に日本軍が増強された。  (離島振興三十年史)

 

1944(昭和19)年

島民6,882名の強制引揚げが行われた。825名の島民が義勇隊として島に残り、このうち142名が戦病死したと伝えられている。  (小笠原の自然)

・4月より8月にわたり、島民約6千8百余人本土に強制疎開する。  (小笠原諸島異国船来航記)

・太平洋戦争激化にともない住民6,866人に対し本土強制疎開令が出され、全員が島を離れた。  (離島振興三十年史)

・強制本土疎開により北硫黄島は無人島になる。  (離島振興三十年史)

・7月3日から同14日にかけて硫黄島の住民1,144人中約8割にあたる900人が父島方面から本土へ強制疎開をした。  (離島振興三十年史)

 

1945(昭和20)年

・3月17日、硫黄島の日本軍玉砕する。8月、ポツダム宣言受諾、終戦。  (小笠原諸島異国船来航記)

・2月17日、アメリカ軍硫黄島上陸作戦開始。3月27日、日本軍の組織戦闘崩壊。日米合わせて5万人にのぼる戦没者を出した。  (離島振興三十年史)

 

1946(昭和21)年

・1月、連合軍最高司令部、小笠原諸島を、沖縄、奄美大島とともに本土より分離し、米軍の軍政下に置く。7月、旧島民による「小笠原、硫黄島引揚者連」組織さる。10月、米占領軍欧米系帰化島民(135人)に対し、帰島を許可する。  (「小笠原諸島異国船来航記)

・1月にアメリカの沿岸警備隊129人が南鳥島に駐屯し気象観測が再開された。  (離島振興三十年史)

 

1947(昭和22)年

・7月、引揚者連盟を「小笠原硫黄島帰郷促進連盟」に改組し、帰郷運動を進める。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1952(昭和27)年

・4月、対日平和条約発効し、日本の小笠原諸島に対する潜在主権(レシデュアル・ソバレンティ)認めらる。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1956(昭和31)年

・7月、重光外相、米政府に島民に対する資産補償を要請する。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1961(昭和36)年

・6月、米政府、旧島民に対し、6百万ドルの補償を認め、日米交換公文公表さる。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1964(昭和39)年

12月、「小笠原、硫黄島帰還連盟」を解散、財団法人「小笠原協会」発足する。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1965(昭和40)年

・1月、第1回墓参実現さる。  (小笠原諸島異国船来航記

 

1967(昭和42)年

11月、佐藤・ジョンソン会談の結果、米側小笠原諸島の施政権の早期返還の意向を表明。12月、日本政府、「小笠原復帰準備対策本部」を総理府に置く。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1968(昭和43)年

・1月、政府の最初の調査団小笠原諸島に行く。4月(5日)、小笠原返還協定東京において三木外相、ジョンソン米大使の間に調印さる。6月(4日)、小笠原諸島23年ぶりに日本に返還さる。父島で返還式、東京日比谷公会堂で返還祝典を開く。  (小笠原諸島異国船来航記)

 

1969(昭和44)年

・軍艦「松江」が西ノ島を測量。 (離島振興三十年史)

 

1972(昭和47)年

・母島の定住が父島に5年遅れて始められる。旧沖村地区のみ。(「離島振興三十年史」)

・都営住宅建設現場から骨角器及びハチジョウタカラガイの貝器が都遺跡分布調査団が発見。  (離島振興三十年史)

 

1973(昭和48)年

・5月30日、西ノ島南東600m海上から火山島噴出。翌年「西ノ島新島」と命名されるが昭和49年3月に西ノ島と接続する。  (離島振興三十年史)

 

1974(昭和49)年

・父島・母島全域が都市計画区域に指定される。  (離島新興三十年史)