現在の小笠原島のコーヒー栽培


 現在、小笠原で栽培されているコーヒーの品種は、母島に生息していた明治期の原木から挿し木によって繁殖させたロブスター種と、苗木や種から繁殖させた近年のアラビカ種の改良品種の2種類です。現在、父島で3軒、母島で1軒の農家がコーヒー栽培に取組んでいます。

 

○笹本農園

(コーヒー畑での笹本好幸さん)

 

 祖父弥次右衛門が明治26年に八丈島から入植者として来島し、弟島で農園をつくりました。コーヒー栽培は大正10年ころ東京府の農業試験場から入手した苗木2本で始まりました。祖父は12人の子をもうけました。その長男が好幸さんの父誉です。一家は昭和14年まで弟島で暮らし、同年に父島に移り住みました。好幸さんは昭和16年に西町で誕生しました。大戦による昭和19年の全島民の本土疎開、昭和21年からの米軍の直轄統治、昭和43年の小笠原返還協定調印を経て、好幸さんが父様と再来島したのは昭和49年でした。コーヒー栽培を再開したいと思い、コーヒー山などで、かつてのコーヒー樹の原木を探しました。同じようにコーヒー樹探しをした人は他にも数人いましたが、父島にはもう一本も残っていませんでした。

 

しかし、返還時、母島には少なくとも2本のコーヒーの原木が残っていました。その1本から内藤さんという方が挿し木により増やした苗木を購入し、コーヒー栽培を再開しました。昭和57年のことでした。それから35年、現在数か所のコーヒー畑には明治期又は大正期のアラビカ種の子孫と新たに購入して増やした近年のアラビカ種の改良種が筆者の目測では2000本以上ありました。笹本好幸さんは現在の小笠原島コーヒー栽培者の中で一番古く、長老的存在です。

 

(明治期又は大正期のアラビカ種の子孫たち)

 

(近年のアラビカ種の改良品種)

 

  生産性はやはり近年のアラビカ種の改良種の方がダントツに良いとのことでした。

 

     (コーヒー豆の乾燥)

 笹本好幸さんのコーヒー栽培にはこだわりがありますが、その後の全工程に工夫や独自性があります。特に乾燥と焙煎には真心を感じます。

 

        (焙煎)

      (朝食事のコーヒー)

 笹本農園の民宿ささもとではオーナーの好幸さんが自ら焙煎~ドリップした世界のコーヒーを毎朝食時に日替わりで振る舞ってくれます。筆者の滞在中には、ブラジル、ケニア、ホンジュラス、コスタリカと世界の一流品が出されましたが、好幸さんは“ボニンコーヒ―を出したいけど

生産量が少ないので・・・”と恐縮していました。

 

(ボニンコーヒ―)

 「ボニンコーヒ―」は笹本農園の登録商標です。生産量が少ないため、父島の直売店でしか販売していません。

          (お店)

                     (民宿ささもと)

ボニンコーヒー 民宿ささもとのホームページ

http://ogasawaranoyado.web.fc2.com/index.html

 

 笹本好幸さんのコーヒーの基となった明治期のコーヒー樹の件を精査しますと以下のようになります。

 

1) 返還時、母島には少なくとも2本の明治期のコーヒー原木が残っていて、内藤さんという方が、それを元手に挿し木によって繁殖させました。この証言は笹本さん以外にも複数あります。

 

2)内藤さんという方は昭和の終わりころ高齢のため東京に引き上げたとのことですが、内藤さんの実在を証明する資料として、小花作助著小笠原島要録があります。小花作助著小笠原島録その第3、p138には明治12年7月13日に桜島丸にて来島した移住者名簿に内藤次兵衛、同妻せん、同長男(名不詳)、同次男錦作の記録があります。明治14年10月29日には小笠原島会議所が設立となり、内藤次兵衛は15人の議員の一人に選出されました。小笠原島返還後、長男または次男あるいは、その子が再来島し、農業を再開したものと思われます。母島取材で、れらの点がより明らかになるはずです。

 

 これに対して、父島に生存していた明治期の原木から挿し木によって子孫を繋いだとの栽培者はいませんでした。父島には明治期のコーヒー樹の原木が返還後も残っていた記録や証言は残念ながら今のところありません。筆者は島の年配者を訪ね精査しましたが、見たい、会いたいと思っていた明治期の原木が昭和43年の返還まで生き残っていた記録も証言も現物もありませんでした。現時点での筆者の見解は以下のようです。

 

1)もし父島に明治期の原木が生き残っていたとしたら、それはロブスター種です。明治11年に武田昌次がジャワで買い付けた品種はロブスター種とわずかな数のリベリカ種でした。それはジャワで発生した病気によるアラビカ種の全滅という事態が理由でした。オランダ政府はアムステルダムの研究農場で繁殖に成功したばかりのリベリカ種も日本に提供したのでした。これらの事情は日本珈琲史を知る上で重要な鍵ですが、明治39年出版の“小笠原島志”p597には買い付けた7種の品種名が詳しく記録されています。

 

 2)もし、明治期の原木が昭和43年の小笠原島返還後まで生き残っていたとしても、樹齢100年では花を咲かせることも実をつけることもできません。コーヒーは1か月程度で芽を出しますが、開花と結実はいいとこ2年樹~20年樹までですから、もし現代まで原木の末梢が残っていたとしたら、100年樹から1年樹まで、数世代以上もの樹齢の異なるコーヒー樹が自生繁殖して子孫を繋いでいたことになります。しかし、原木が生き残れないようなジャングル化した環境のなかでは残念ながら、何世代も子孫を繋ぐ奇跡は起りませんでした。筆者の小笠原島コーヒーの原木探しは今後もまだ続きます。

 

 

USKコーヒー (次回、取材予定です。)

 

 

(予定画像)

―>店内

―>コーヒーカップ

―>夫妻

 

 USKコーヒー ホームページ

https://uskcoffee.com/

 

 

 

○野瀬ファ―ムガーデン (次回、取材予定です。)

 

 

(予定画像)

―>コーヒーロード

―>店内

―>父、娘

 

野瀬ファームガーデンホームページ

http://www.ne.jp/asahi/bonin/island/index.html  

 

 

 

○母島のコーヒー 北川農園 (次回、取材予定です。)

 

○小笠原島コーヒー樹のDNA鑑定実施について ーー>準備中