現在の小笠原島の養蜂


 

継承された小笠原島の養蜂

 

 明治11年11月5日に武田昌次が内務省勧農局小笠原出張所長として小笠原島赴任時に郵船社寮丸にて西洋蜜蜂複数箱を内務省勧農局内藤新宿試験場から小笠原島父島に移入しました。当初は北袋沢で飼育されていましたが、明治15年に武田昌次の娘婿長谷川常三郎が武田昌次から蜜蜂飼育を引き継ぎ、飼育場所は父島扇村二子山となりました。この時の蜂群数は12箱でした。その後、後継者は砂岡伊三吉、五十嵐八五郎と代を繋ぎ、蜂群数も300箱以上にまで増え、本土への逆移出が盛んにされました。

 

 本土側の最初の移入者は東京農林学校の玉利喜造博士で明治23年、24年に1群ずつでした。玉利喜造の教え子の青柳浩次郎が明治25年~27年までの3年間に十数群移入しました。その後、それらの情報を得た様々の人たちによって小笠原島の西洋蜜蜂は本土に逆移入されました。

 

 明治35年頃には200箱にまで増えたが餌切れによる餓死と内地への移出で50~60群まで減ったとの記録があります。本土への移出は、明治41年には13箱明治42年には20箱以上、 明治43年には30箱明治44年には22箱だったとの記録があります。明治45年頃が蜂群数のピークで島内だけで、300群以上だったとの記録もあります。 

 

 記録によりますと、大正14年現在では、小笠原島で養蜂業が盛んとなり島内飼養戸数61戸、蜂群数171群でした。

 

 その後の小笠原島の養蜂についての記録や記述は今のところ、見つかっていないのですが、小笠原島には飼育群ばかりでなく、分封により岩場や大木の洞に造巣し住み着いた蜂群も相当数いました。

 

 太平洋戦争のため、1944年(昭和19年)825名の島民が義勇隊として島に残りましたが、全島民が本土に強制疎開させられました。1946年(昭和21年)、小笠原島は米軍政下に置かれ、欧米系帰化島民のみ帰島が許可されました。農地は2年間放置されていましたが回復は可能でした。欧米系帰化島民は生活と活気を取り戻しました。帰島した欧米系帰化島民の中に養蜂を再開した方がいたかも知れません。島に残る欧米系帰化人の年配の方々に聴き取りをしています。

 

 小笠原島が日本に返還されたのは1968年(昭和43年)でした。欧米系帰化島民以外の元島民も一人、二人と再来島するようになりましたが、24年間の疎開中に農地はジャングル化し、手の付けようもない状態になっていました。飼育されていた蜜蜂はどうなったでしょうか。24年の歳月は巣箱を腐らせ、風雨も非情で生存可能な状態の維持はできませんでした。しかし岩場や大木の洞には野生化した西洋蜜蜂が住み続けることが可能だったはずです。小笠原返還後、岩場や大木の洞から蜂群を捕獲し飼育を開始した人がおられるはずです。

 

 筆者は明治期の小笠原島西洋蜜蜂の子孫の痕跡を探しに平成27年(2015)から毎年1月に小笠原島を訪れ瀬堀ロッキ氏のご協力を得て、現地調査や年配の方々からの聴き取りを続けています。以下はその中間報告です。

 

 

瀬堀養蜂園

 

 1830年にハワイから小笠原島に移住してきた先住民のリーダーであったナサニエル・セボリー氏の子孫の方々が今でも島に住んでおられます。その5代目のお一人が瀬堀ロッキさんです。ロッキさんは商社マンでしたが2001年の9・11テロをきっかけに退社し、島に戻られ父エイブルさんの養蜂を継がれたのだそうです。その時の蜂群は5箱だったそうですが、現在では150箱以上になっています。

 

           ーーー以下準備中ーーーーー

 

―>奥村地区写真

―>奥村蜂場内写真8枚

ー>大村蜂場内写真4枚

―>果樹写真4枚

 

―>蜂場での夫妻

―>コンテナ群

 

――>採蜜作業(蜜枠、電気蜜刀、遠心分離器)

コンテナ製の採蜜舎に、ご主人が満タンの貯蜜巣碑枠を引き上げてきておき、後日ここで奥様が採蜜作業をなさるそうです。

――>ビン詰め作業(蜂蜜充填機、ホットガン)

ーー>商品(店頭の陳列)

 

 

瀬堀養蜂園の蜜蜂のルーツ

 

 瀬堀ロッキさんの父様エイブルさんは東京都小笠原支庁に勤務していました。1970年頃のことですが、父島で農業をされていた増井さんと言う方が果樹の花粉交配に蜜蜂を利用しているのを見て、エイブルさんも自家の果樹栽培のために蜜蜂を飼いたいと思ったそうです。当時は夜明山の岩場のあちこちの穴や割れ目に蜜蜂が造巣していて、いくらでも捕獲できたそうです。エイブルさんは捕獲してきては、逃げられの連続だったそうです。

 

 1980年頃、都庁の水道課職員の望月さんと言う方が小笠原島に出張で来られて、埼玉県の自家の近くに良い養蜂場があって、そこから蜜蜂を買うことができると言うのです。蜜蜂は山で捕まるものとばかり思っていたエイブルさんには驚きでした。早速2群お世話していただきました。それは間室養蜂でした。

 

 筆者は同じ埼玉県下で親しい間室養蜂を訪れ、当時の記憶や記録がないか尋ねました。間室養蜂は1961創業ですが1980年頃は社長の間室治氏は未だ養蜂には従事しておらず、会長の間室輝雄氏のみだったそうです。間室輝雄氏は3年前にお亡くなりになっており、小笠原島への蜜蜂発送についてのお話しを伺うことはできませんでした。社長の間室治氏は“歴史にはロマンがあるね~”と、小笠原島の蜜蜂との繋がりに感動しておられ、当時の帳簿や記録を探してくださったのですが、簡単には見つかりそうもないと連絡がありました。

 

 エイブルさんは遠心分離器や燻煙器などの道具は愛知県の野々垣養蜂園から購入していたそうです。エイブルさんは70歳になるころ、ご病気のこともあって、養蜂をロッキさんの兄さんに引き継ぎましたが兄さんは蜜蜂が苦手で、ロッキさんが引き継ぐことになったのだそうです。エイブルさんは73歳でお亡くなりになるまでの2年間、ロッキさんと一緒に養蜂をされたそうです。

 

ーー>エイブルさんとロッキさんの写真準備中

 

 その後、ロッキさんは分封で蜂群を増やすだけでなく、岩場の蜂群を捕獲したり、その分封群を捕獲したりしてきました。現在の瀬堀養蜂園の蜂群は、岩場に生き続けていた明治期のイタリアン種の子孫と間室養蜂から購入したイタリアン種の交雑種と言うことになります。

 

 

歴史に見る瀬堀家

 

参考文献:小笠原諸島概史(辻友衛、1985年、辻友衛

     小笠原島ゆかりの人々〈田畑道夫、1993年、平成5年、文献出版〉

小笠原諸島歴史日記(辻友衛、1995年、平成7年、近代文藝社)

幕末の小笠原(田中弘之、1997年、平成9年、中央公論社)

小笠原島要録(小花作助、2006年、平成18年、小笠原諸島史研究会)

 

○1830年、天保元年6月2日、マテオ・マザロ、ナサ二エル・セーボレーら欧米人5人と使用人のポリネシア人15人、帆船の乗員3人が下船し合わせて23人が小笠原島父島に上陸し最初の移住者となる。ナサ二エル・セーボレーはマサチューセッツ州出身の船員で、英国船に乗り組んでいたが、航海中手に負傷しホノルル入港中に上陸して治療を受けていたところ、船が彼を置いたまま出港したため、マザロの小笠原島移住計画に参加することになった。ホノルルにて治療を受けていた関係で一行より一足遅れて6月26日に到着。移住数年後からマザロとセーボレーは対立するようになり、勢力争いがおこる。

 

○1836年、天保7年7月15日、米国軍艦「ピーコック号」と「エンタープライズ号」がナサ二エル・セーボレーの水先案内で二見港に停泊する。

 

○1843年、天保14年、マザロとセーボレーとの間が険悪となり、マザロが廃業水夫のフランシス・シルバーにセーボレーを撲殺するかアヘンで毒殺するよう命ずるが、発覚しセーボレーは無事。

 

1843年、マテオ・マザロがグアム島のマリア・デレサント17歳と結婚する。

 

○1848年、嘉永元年、マテオ・マザロ父島で死亡。

 

○1850年、嘉永3年1月9日、「セント・アンドリュー号」と「メイド・オーストラリア号」の船員らがナサ二エル・セーボレーの現金2千ドル、家畜、油等を奪ったうえ、セーボレーの妻を船に連れ去り出港する。

 

1850年、ナサ二エル・セーボレーが、故マテオ・マザロの未亡人、マリア・デレサント22歳と結婚する。

 

○1851年、ナサ二エル・セーボレーの長男アルバートが誕生する。

 

1851年、欧米人移住者1世が次々に亡くなり、ナサ二エル・セーボレー独りとなる。

 

○1853年、嘉永6年2月14日、ナサ二エル・セーボレーの長女アグネス・バーバンクが誕生する。

 

1853年6月14日、遣日特派大使ペリーが「サスケハナ号」で二見港に入港する。ぺりーはセーボレーを招いて会談し、船舶用貯炭所用地として二見港北岸の土地役7ヘクタールを50ドルで買い上げ、管理をセーボレーに委任する。この時2人とも59歳であった。ペリーはセーボレーを米国海軍籍に編入する。

 

ーー>写真準備中

 

1853年6月18日、ぺりーがピール・アイランド植民政府構成法を議決させる。これによりナサ二エル・セーボレーを島長官に任命する。

 

1853年、ナサ二エル・セーボレーの長男アルバートが2歳で死亡する。

 

○1855年、安政2年4月3日、ナサ二エル・セーボレーの次男ホーレス・ペリーが誕生する。

 

○1856年、安政3年2月28日、ナサ二エル・セーボレーの次女ヘレン・ジェーンが誕生する。

 

○1860年、万延元年3月1日、ナサ二エル・セーボレーの三男ロバートが誕生する。

 

○1861年、文久元年12月19日、「咸臨丸」が父島二見港の奥村前湾に入港。

 

ーー>写真準備中

 

1861年12月20日、住民と面談、事情聴取。進物する。ナサ二エル・セーボレーには家鴨二つがいを進呈する。役人一同、セーボレー宅に出向く。母屋のほかに小屋が7棟あり、役人の一部は宿泊する。外国方の荷物保管の為、物置小屋1棟を借用する。

 

1861年12月23日、役人奥村に上陸し、ナサ二エル・セーボレー、トーマス・ウエブ、ジョージ・ホートンの3人を招き、全住民が日本国民となる手続きを説明する。

 

○1862年、文久2年1月、石碑「小笠原島新はりの記」の建立。

 

1862年当時のナサ二エル・セーボレーの開拓地は奥村1町6反、北袋沢8反9畝(合計約2,670坪、約8ヘクタール)。

 

1862年3月20日、ナサ二エル・セーボレーの三女エスター・シウーラが誕生する。

 

○1866年、慶応2年7月24日、ナサ二エル・セーボレーの四男ベンジャミンが誕生する。*瀬堀ロッキさんは、このベンジャミンの家系に1960年に誕生しました。

 

○1871年、明治4年、ナサ二エル・セーボレーの四女イサベラが誕生する。ピースが父島の首長になることを企み、セーボレー老77歳を殺害しようと謀る。

 

○1874年、明治7年3月、ベンジャミン・ピースが父島の独裁者となり島民を殺傷するなど暴挙に及ぶ。

 

1874年4月10日、ナサ二エル・セーボレー79歳が奥村の自宅で逝去する。居住民全員で葬儀を行い、自宅の敷地内に埋葬する。

1930年、昭和5年、これまで墓地は各自の所有地か借地にあったが、ブロスバ・ルイ・レゾワーが大根山牧場を共同墓地用に寄付して以来、個人の墓地が認められなくなり、セーボレー家の墓地も大根山墓地に移転されることとなる。

 

ーー>ナサ二エル・セーボレーの墓碑準備中

 

1874年10月9日、横暴を極めたベンジャミン・ピースが何者かに殺害される。

 

○1875年、明治8年11月4日、「明治丸」が二見港に入港する。午後、船上にホーレス・セーボレーら父島全戸の戸主たちを招き、全島開拓の旨を諭す。

 

○1878年、明治11年12月25日、ホーレス・セーボレーとエリザ・ウエブ結婚する。内務省から洋酒3瓶をお祝いに贈られる。内務省役人2名参列する。

 

○1882年、明治15年4月、ホーレス・セーボレーら父島在住外人16人が帰化入籍する。

 

○1884年、明治17年2月15日、ホーレス・セーボレーら21名が小笠原島会議所新役員に選出される。

 

○1887年、明治20年末、奥村住民はセーボレー一家 戸主母マリア・デレサント59歳、次男ホーレス・ぺりー32歳、次女ヘレン・ジェーン31歳、三男ロバート27歳、四男ベンジャミン21歳、四女ベル・イサベラ15歳、同家の同居人ワシントン一家(長女の嫁ぎ先)。

 

ーー>セーボレー一家の写真準備中

 

○1889年、明治22年当時、奥村にはセーボレー一族が6戸。

 

ーー>当時の奥村の写真準備中

 

○1912年、大正元年10月1日、人口調査。父島2,033人(400戸超)、このうち帰化人120人(26戸)この頃、養蜂業が盛んとなり、蜂蜜の生産量が大いに増える。又種蜂の移出も盛況を極める。養蜂飼育農家61戸、養蜂171箱、採蜜551kg。

 

○1926年、大正15年1月、人工調査。奥村にセーボレー一族6戸30人。ダニエル・セーボレー家8人は隣浜居住。

 

ーー>セーボレー一族の住居写真準備中

 

 

森本智道農園

 

 森本農園は森本栄三郎が明治19年に農業者として来島した時に始まります。当初は引揚弥一郎方で雇われ農業に従事しました。40歳でした。21年には次男の萬次郎を、明治22年には母せい、兄善四郎、弟土井夫妻を呼び寄せました。同年、玉置森平の畑1町9反を家屋とともに買い受けてからは、ほとんど毎年農地を買い増して行き、明治31年には、森本栄三郎の田畑は合計3町5反歩余となり、鍋島喜八郎に次ぐ父島第二の大地主となりました。明治33年に森本栄三郎は病気勝ちのため島の農業は長男正吉に任せて、母と妻及び次男を伴い故郷の奈良県に引き揚げました。

 

 昭和43年の返還後帰島して森本農園を再開したのが森本正吉の長男、智道氏です。24年間放置された農地はジャングルと化していて、農園の再開には大変な苦労をしました。智道氏がお亡くなりになった後は、森本智道農園は妻かおりさんが引き継ぎ経営しておられます。森本智道農園の朝採り野菜は小笠原生協で販売されています。

 

 

 

森本智道農園の蜜蜂の由来

 

 農園のマンゴー畑の中に、ちゃぼや鴨が放し飼いにされています。そのすぐ傍に蜜蜂の巣箱が並べられています。戦前にはすべての農家で果樹や野菜の花粉交配のために蜜蜂を飼育していたと先代は話していたそうです。智道氏が養蜂を始めたのは、小笠原返還直度の昭和45年頃だそうです。智道氏は岩場に造巣している野生の蜜蜂を捕獲してきて手作りの巣箱に入れ、次第に数を増やしたのだそうです。その後、妻かおりさんも増やし続け、現在は50箱以上になっています。

 

 1トンもの蜂蜜が採れた年もあるそうです。野生系の蜜蜂は性格がかなり荒く扱いにくいそうですが、蜜はすごく集めるとのことです。一方、内地から来た蜂はおとなしくて、めったに刺したりしないけれども、巣門のところにかたまっていて、ちっとも働かないとも話しておられました。内地からの種蜂導入はかおりさんの結婚後に、東京都下及び中部地方からだったようですが、かおりさんは、”内地から蜜蜂を入れたことはありません”と言われました。使用している巣箱は岐阜のフルサワ蜂産製の定転兼用10枚箱と定飼用10枚継箱でした。

 

 

解説1)蜜蜂は分封して野山に造巣することがありますが、犬、猫のように性格が野生化する訳ではありません。造巣場所が大木の洞や岩場の裂け目だということだけです。私たちが飼育している蜜蜂は人口の巣箱と巣枠に造巣させ、飼育管理をしていますが、蜜蜂そのものは野山に造巣している蜂群同様、野生です。西洋蜜蜂は品種改良されていますが、昆虫ですから牛馬のよう人間に慣れ、家畜化するわけではありません。山の蜂は荒く、飼育している蜂はおとなしいわけではありません。近年、飼育している蜜蜂が荒くなっているのは全世界的な事です。原因は女王蜂のフェロモンの関係と考えられます。

 

解説2)蜜蜂は夏期には、一部の蜂が巣箱の外に出て、かたまります。巣門の上部に板面いっぱいになることもあります。暑くて、涼んでいるとか、さぼっているとか言われていますが、真実は以下のようです。

 

 蜜蜂は巣箱内温度を一定に保っています。産卵、育児のある春から秋までは36.3度C前後です。気温が低ければ、巣箱内温度を上げ、高ければ巣箱内温度を下げなければなりません。蜜蜂にとっては気温が高い方が大変です。外から水を運び、巣箱内に散布し、旋風をし、気化熱により巣箱内温度を下げます。この時、旋風の効率性を高めるために、普段、巣房につかまってほとんど動くこともなく蝋や王乳を分泌していた何百匹もの若蜂たちは巣箱の外に出て巣門の上部にかたまり、そこで自分の任務を果たします。涼んでいるのでも、さぼっているのでもありません。働いているのです。巣門上部にかたまっている蜂たちを観察すると、かたまった蜂たちの上を動き回り、からだを舐めている蜂が複数いるのに気づきます。分泌された蝋や王乳を集めているのです。

 

 筆者も種蜂業をしておりますので良くわかるのですが、小笠原島のような暖地では3~4月の内地からの種蜂到着後には、巣門上部に蜂のかたまりができます。それは次のような理由によります。

 

まず種蜂と言うのは、外役蜂は少なく、内役蜂がほとんどです。これはどういうことかと言いますと、蜂群の輸送中に外に出たがって騒いで起こる蒸殺と言う死滅を避けるために、外に出たがる外役蜂を少なくし、若蜂すなわち内役蜂を多く構成しているのです。巣枠内は言うと、卵、蛆、蛹が一杯です。

 

結果、種蜂到着後次のような現象となります。

 

1)当初は蜜を取りに行く蜂が少ない。

外役蜂が少ない理由は上述の通りです。蜜を集めさせるのにはその蜜源花が咲き出す一ヶ月前までに種蜂を取り寄せる必要があります。内役蜂は約一ヶ月しないと外役蜂とならないからです。巣房からは、新しい蜂がどんどん羽化してきますが、若蜂は内役蜂です。種蜂と言うのは若蜂集団なのです。

 

2)当初から巣門上部にかたまる。

かたまる理由は解説2)の通りですが、もう一つ理由があります。それは蜜蜂の体感温度と言うことです。内地から小笠原島に蜜蜂を取り寄せると、急に夏環境に投入することになります。現地の蜂は平然としていますが、内地から来た蜂群だけ、巣門上部にかたまりを作ります。これは体感温度の違いによるものと考えられます。到着当初は成育地の温度感覚で体感しているのです。真夏になれば、現地の蜂群もかたまりを作ります。

 

 

森本智道農園の養蜂者育成

 

 養蜂を若い従業員に教え、独立を支援しているそうです。その第一号中田君は約2km離れた山中に養蜂場を作っています。

 

 

 

歴史に見る森本農園

 

参考文献:小笠原諸島概史(辻友衛、1985年、辻友衛

     小笠原島ゆかりの人々〈田畑道夫、1993年、平成5年、文献出版〉

小笠原諸島歴史日記(辻友衛、1995年、平成7年、近代文藝社)

幕末の小笠原(田中弘之、1997年、平成9年、中央公論社)

小笠原島要録(小花作助、2006年、平成18年、小笠原諸島史研究会)

 

○明治19年(1886)2月11日、奈良県人森本栄三郎40歳来島、北袋沢村33番地の引揚弥一郎方で歩合農業に従事する。

 

○明治21年7月21日、父島の森本栄三郎が次男の万次郎を連れて帰島する。

 

○明治22年(1889)1月25日、森本栄三郎の母せい、兄善四郎、弟土井夫妻来島。玉置森平の畑1町9反を家屋とともに280円で買い受ける。

 

○明治23年(1890)3月23日、森本栄三郎が北原久右衛門の畑2町3反を家屋共384円で買い受け引き移る。

 

○明治24年(1891)4月18日、定期船が出港する。父島の森本栄三郎がこの船で上京する。

 

○明治24年(1891)7月15日、奈良県に帰郷中の森本氏が、米、麦、味噌、醤油、甘蔗絞り器械一式と、たばこや家庭用品などを、大阪安治川より出帆の「大海丸」に積み込み父島へ直航する。妻みつ、長男正吉、四男清造、五男栄吉と、虎走藤四郎親子が、たばこ切り器械などを持参して同行する。

 

○明治25年(1892)1月、父島製糖組合の総会で役員改選があり、北袋沢の森本栄三郎が頭取となる。

 

○明治25年(1892)、森本家が、服部初太郎の田地1反8畝と畑地5反9畝を120円で買い受ける。

 

○明治26年(1893)1月、森本家が、ジョージ・ゲレーの畑5反9畝を135円で買い受ける。

 

○明治27年(1894、)森本栄三郎が北袋沢の荒井義邦の畑地2町歩を95円で買い受ける。

 

○明治28年(1895)8月1日、扇村袋沢村の総代に、北袋沢農業森本栄三郎が就任する。

 

○明治28年(1895)8月、帰郷中の森本栄三郎は亡父や先祖供養のため暫く奈良に逗留することになり、兄の善三郎に依頼して松岡乙吉ら11人を農業を行わせるため父島に移住させる。

 

○明治28年(1895)10月、森本栄三郎が岩谷大助ら3人を連れ帰島。

 

○明治30年(1897)、森本家が曽根藤吉ら5人から畑と家屋約3町歩を537円で買い受ける。

 

○明治31年(1898)、北袋沢の森本栄三郎が扇村の道路委員に選ばれる。佐々木通右衛門の畑3反3畝を28円で買い受ける。同氏の田畑合計で13町5反歩余となる。鍋島喜八郎氏に次ぐ父島第二の大地主となる。

 

○明治33年(1900)8月13日、、扇村の森本栄三郎が病気勝ちとなり、母と妻及び次男を伴い故郷の奈良県に引き揚げる。

 

大正元年(1912)、養蜂業が盛んとなり、蜂蜜の生産量が大いに増える。又種蜂の移出も盛況を極める。養蜂飼育農家61戸、養蜂171箱、採蜜551kg。

 

 

 

 笹本農園の養蜂場跡

 

 叔父仁さんがーー>準備中

 

 

北袋沢の岩場の造巣

 

 返還当時から蜜蜂が造巣していてる岩場。もう50年以上同じ場所に造巣しているということは、分封したり、王が交代したりして世代をずっと繋いでいるということです。返還前の期間も加えたら100年以上住み着いていると考えられます。このような造巣は人が近づけないような岩場にまだ幾つもあるそうです。

 

 

 

朝日山の岩場の造巣

 

こちらは、数年前に発見された造巣。

 

 

 

大木の洞の造巣

 

こちらは、発見されてからもう十数年間住み着いているそうです。。

 

 

 

まとめ

 

 明治11年に武田昌次が小笠原に移入した西洋蜜蜂は、明治、大正期に小笠原島でうまく繁殖し、本土に移入され日本の西洋蜜蜂養蜂の基いとなりました。昭和期には西洋蜜蜂は外国から大量輸入され本土で繁殖、販売されるようになり、小笠原からの移入の需要は減少しましたが、小笠原島では、ほぼ全農家で飼育され果樹や野菜の花粉交配に活用されていました。その後、24年もの島民疎開期間があったにも関わらず、蜜蜂たちは岩場の割れ目や木の洞で生き続けてきました。小笠原島にはスズメバチなど西洋蜜蜂の天敵がいないのと、内地のようなダニ被害がないので、生き延びることができたのです。明治期の西洋蜜蜂の子孫たちは、小笠原返還後に本土から持ち込まれたイタリアン種と交雑になりましたが、確実に種を繋いで現在に至っています。