6)西洋蜜蜂の小笠原島移入
日本の西洋蜜蜂の歴史は田中芳男と武田昌次のネットワークと、もう一つ、小笠原島の殖産開発のひとつコーヒー移植との関係の中で展開していくことを本章で詳しく述べたいと思います。
明治期の小笠原島の歴史を記録した下記の五つ文献に西洋蜜蜂に関する記述があります。その記述には少し食い違いがありますので、以下に対照してみたいと思います。
小笠原島物産略誌 1888(M21) 服部 徹 有隣堂 p30 |
小笠原島要覧 1888(M21) 磯村貞吉著 小花作助選 p251
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小笠原島誌纂 1888(M21) 東京府小笠原庁編 p421 |
小笠原島志 1906(M39) 山方石之助著 小花作助閲? p623~4 |
小笠原島総覧 1929(S4) 東京府編 p262 |
蜜蜂は元来該島に産せず、明治13年6月武田昌次氏が渡航の節を以て伊太利蜂5箱を携え来たり、これを以て此の始とす。
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小笠原島には元来蜜蜂を産せず。明治13年6月武田昌次なるもの伊太利産蜜蜂3箱を移せしを始めとし~
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蜜蜂 この種は 明治13年6月武田昌次氏が赴任の際以て伊太利蜜蜂5箱を携え来りしがたが、この中2箱損害し、唯3箱の遺りたるを祖とし、之を北袋沢に育養せし~
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蜜蜂は明治11年9月伊太利蜂2箱を武田昌次が勧農局の手を経て本島に持ち来りこれを父島扇村二子山に飼養せしに始まる~
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明治11年伊太利から種蜂を輸入して飼養したのを発端とする。 |
これらの文献から以下のようなことがわかります。
あ)小笠原島には元来蜜蜂はいませんでした。
小笠原島には在来種の蜜蜂(日本蜜蜂)はいませんでした。これは日本の他の離島と同じで、本土とは動物、植物とも違いがありました。1803年のハワイからの移住民によっても蜜蜂移入の記録はなく、小笠原島には西洋蜜蜂もいませんでした。
い)蜜蜂は武田昌次によって小笠原島に初めて移入されました。
武田昌次は明治5年に明治新政府の官僚となり、明治6年のウイー万国博覧会派遣団の一員として田中芳男とともに渡欧。明治7年に明治政府の組織に主要人材が適所配置され、田中芳男とともに武田昌次も内務省勧業寮すなわち“産業振興局”に配属されました。植物学者であり、日本で亜熱帯植物の植育をめざしていた田中芳男は明治10年に内務省に博物局が創設され初代局長に就任しました。武田昌次も博物局に転出となり、田中芳男直属の一等属書記官となりました。明治11年には内務省勧農局一等属書記官となり内務省勧農局小笠原出張所長として小笠原島に赴任しました。
う)移入されたのはイタリアン種でした。
“伊太利蜂”、“伊太利産蜜蜂”、“伊太利蜜蜂”はイタリアン種を表わしていますが、小笠原島総覧は“伊太利から種蜂を輸入“と記述しています。編者の知識不足により、伊太利蜂又は伊太利産蜜蜂は種の名称とは思わず、伊太利から輸入した蜜蜂と勘違いしたものと考えられます。 どの文献にも何かしら記述の間違いはあります。ですから内容の精査が必要なのです。
え)移入したのは複数箱でした。
小笠原島要覧は“3箱”、小笠原島誌纂は“5箱中2箱損害で3箱”、小笠原島志は“2箱”、小笠原島物略誌と小笠原島総覧には巣箱数についての言及はありません。情報原が異なるのか、情報の正確性を果たしていないのかはわかりませんが、食い違いはあります。蜜蜂を飼育している者なら2箱より3箱、3箱より5箱の方が危険回避できることを知っています。ですから、箱数は定かではありませんが、複数であったというのは養蜂家ならうなずけることです。
お)飼育場所は父島南東部でした。
“小笠原島誌纂”は“之を北袋沢に育養せし~”とあり、“小笠原島志”は“これを父島扇村二子山に飼養せし”とあります。一見すると地名が違いますが、内務省出張所は扇浦に、勧農局出張所は北袋沢に設置されましたので飼育エリアとしてその近辺と言うことは納得いくものです。
か)移入時期は2説あります。
移入した時期は明治13年説と明治11年説があります。明治21年出版の3誌が13年説、明治38年と昭和4年出版の2誌が11年説です。
小笠原島物産略誌 1888(M21) 服部 徹 有隣堂 p30 |
小笠原島要覧 1888(M21) 磯村貞吉著 小花作助選 p251 |
小笠原島誌纂 1888(M21) 東京府小笠原庁編 p421 |
小笠原島志 1906(M39) 山方石之助著 小花作助閲? p597 |
小笠原島総覧 1929(S4) 東京府編 p262 |
明治13年6月 |
明治13年6月 |
明治13年6月 |
明治11年9月 |
明治11年
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この違いは大きな食い違いです。以下、この点を考察します。出版年の早い3誌にある13年説を先に検証してみます。
13年説の検証
まず、武田昌次の明治11年~13年の足跡を列挙してみます。
○ 明治11年3月 インド、ジャワへ出張(――>大日本農史今世p260-261)
武田昌次は5-6月には帰国でき7月には小笠原島入りできると思っていたようです。明治11年2月27日付けの小花あての武田昌次本人による書簡には以下のようにあります。
私儀小笠原島へ諸植物移植の取り仕切りを命じられましたので、本年3月に御地に赴くつもりのところ、幾那、珈琲樹買い入れのためインド、ジャワへ出張の命を受けました。それにより、今回は渡島できなくなりました。7月便で渡島出来るものと思っております。
(小笠原島要録第3編4の7)
○ 明治11年6月 買い付け品を日本に発送(――>大日本農史今世p271)
○ 明治11年8月13日 インド、ジャワから帰国(――>大日本農史今世p275)
○ 明治11年11月5日、武田昌次が長男や農夫らを伴い小笠原島入り。
当時の報知新聞に以下のような記事が掲載されていますが、 実際に郵船社寮丸にて来島したのは明治11年11月5日でした。(――>(小花作助著小笠原島要録第3、146項)
小笠原島へ樹那コーヒー苗植え付けのため、勧業局の1等属武田昌次君が農夫10名、頭取世話役1名および農具、苗木等を積み載せ、来る10月1日該島へ発船さるる趣き、また該島の袋沢という所に、勧農局農務所を設け、武田君および直井真澄君の官宅2棟をその側に建設し、武田君到着の上は、万事を主任ささる由 (報知新聞、明治11年10月16日)
○ 明治12年2月 武田昌次は明治11年に小笠原島に移植した植物の成績報告を勧農局に提出しました。(――>大日本農史今世p298)
○ 明治12年5月6日 新宿試験場は廃止され、宮内庁管轄の植物御苑となりました。(―――>大日本農史今世p301)
○ 明治12年7月 武田昌次は長男重吉を伴い一時帰京しました。 (――>(小花作助著小笠原島要録第3、146項)
○ 明治12年5月以降 新宿試験場の西洋ミツバチは2群だけ新宿植物御苑に残し、他は各府県に払い下げられました。(――>農務顛末抄録)
○ 明治12年11月 一時帰省で東京に滞在していた武田昌次が帰島ました。(――>小笠原島要録第4編181項11月27日付け文書)
○ 明治13年10月8日 内務省所轄の小笠原島を東京府管轄決定し布告。(――>小笠原島要録第4巻198項)
○ 明治13年10月22日 小花作助に帰京辞令(――>小笠原島要)六第4巻199項)
○明治13年11月5日 武田昌次は内務省から東京府に転出し、そのまま小笠原島試験場の所長に就任。
13年6月に蜜蜂を小笠原島に持ち込んだとすると、13年3月便で再度東京に一時帰省し4カ月後の7月便で帰島したことになります。13年6月説とは1か月の食い違いは出ますが・・・。しかし、明治13年の武田昌次の動向を精査しても小笠原島要録第4編に再帰省に関して何の記録もありません。武田昌次は明治13年には帰省はなく小笠原島に留まっていたということです。明治13年は小笠原島コーヒー移植の最忙年です。
――>補足準備中
武田昌次の活動歴を追ってみると、蜜蜂を小笠原島に運ぶ機会はもっと前にありました。武田昌次の足跡から特に注目したいのは明治12年7月一時帰京、明治12年11月に東京出張から帰島したとの記録です。当時横浜~小笠原島父島間には蒸気船の定期便がありました。3月、7月、11月の年3便でした。小笠原試験場の所長であった武田昌次が小笠原島を4か月も離れるというのは、よほどの用事が発生したものと考えられます。それは12年5月に決定した、新宿試験場の廃止と宮内庁への所轄替えという大作業だったと考えられます。新宿試験場の引渡業務や残務処理で局内がごった返す中で、前責任者である武田昌次が呼び出されたと考えられます。
明治12年5月6日 新宿試験場は廃止され、宮内庁管轄の植物御苑となりました。(―――>大日本農史今世、p301) そして、明治12年中に新宿試験場の西洋蜜蜂は2群新宿植物御苑に残し、他は各府県に払い下げられました。(――>農務顛末第5巻第23内藤新宿試験場7試験場引継方の義に付宮内省へ御回答按伺、p1061~1064)
――>補足準備中
明治12年11月に一時帰省で東京に滞在していた武田昌次が帰島ました。(――>小笠原島要録第4編181項11月27日付け文書)新宿試験場の廃止時に、武田昌次が小笠原島に西洋蜜蜂を持ち帰ろうと思えば、それが出来た時期であり、状況であったと考えられます。武田昌次が所属する内務省内の決済で済む事柄だったからです。
しかし、武田昌次が西洋蜜蜂の小笠原島への移入を実行したとすれば、もっと前、すなわち明治11年の小笠原試験地への赴任時です。
宮内庁管轄の蜜蜂について
明治12年5月6日 新宿試験場は廃止され、宮内庁管轄の植物御苑となりました。(―――>大日本農史今世p301)そして、明治12年新宿試験場の西洋蜜蜂は2群だけ新宿植物御苑に残し、他は各府県に払い下げられました。(――>農務顛末第5巻第23内藤新宿試験場7試験場引継方の義に付宮内省へ御回答按伺、p1061~1064) 明治13年6月の時点で存在したとすれば宮内庁管轄となった2群です。うまく生育して3群あるいは5群に増群となっていた可能性はあります。
現代のほとんどの養蜂関係書はこの宮内庁管轄の蜜蜂を武田昌次が明治13年6月に小笠原に運んだと史実であるかのように記述しています。13年6月説は日程の点から裏が取れないことは前述した通りですが、蜜蜂は存在したでしょうか? 存在したとしても宮内庁の管轄物を武田昌次が小笠原に運べたでしょうか? 本当にそんなことが出来たでしょうか? 農務顛末にありますよう省庁間のやり取りは簡単なものではありません。もし、武田昌次が小笠原島にこれを移入したとすれば、そこには宮内庁から内務省に再管轄替えという複雑なやり取りが発生してしまいます。今のところそのような記録物は知られていず、無いと思われます。すなわち宮内庁管轄の蜜蜂が武田昌次に渡ったと言う裏はとれていません。
――>補足準備中
ーー>新史料発見!!(記述準備中)
13年6月説は非常に苦しいです。武田昌次の日程的な裏も、肝心の蜜蜂の裏も取れていません。
11年説の検証
明治39年に出版された“小笠原島志”は11年説です。しかも9月とあります。明治21年出版の“ 小笠原島物産略”、“小笠原島要覧”や“小笠原島誌纂”を参考文献としていますが、”13年6月”を ”11年9月”と読み違えるとは考えにくいです。そうではなく、別の確実な資料や文献や関係者等からの証言を得たからと考えられます。13年説を精査した結果、11年説を打ち出したと考えられます。
昭和3年に出版された“小笠原島総覧”ですが、前ページで述べましたように伊太利種蜜蜂について理解違いがあります。ですから、そのほかの記述内容も信頼性に欠けるような印象を受けますが、先に出版されている“ 小笠原島物産略”、“小笠原島要覧”や“小笠原島誌纂”に13年説が記述されているのにもかかわらず、11年説をとっています。確実な資料や文献や関係者等からの証言を得て、“小笠原島志”同様11年説をとったと考えられます。
当時の報知新聞に以下のような記事が掲載されています。
小笠原島へ樹那コーヒー苗植え付けのため、勧業局の1等属武田昌次君が農夫10名、頭取世話役1名および農具、苗木等を積み載せ、来る10月1日該島へ発船さるる趣き、また該島の袋沢という所に、勧農局農務所を設け、武田君および直井真澄君の官宅2棟をその側に建設し、武田君到着の上は、万事を主任ささる由
(報知新聞、明治11年10月16日)
明治11年10月16日記事ですが内容は“来る10月1日”云々となっていますので、9月中に書いた記事であるとわかります。内容の詳細さからみて、これは内務省からのプレスリリースによるものと思われます。年3回の定期船とはいえ就航日程は1か月程度のずれがありました。実際に郵船社寮丸にて来島したのは明治11年11月5日でした。 (――>(小花作助著小笠原島要録第3、146項)
“小笠原島志”にある明治11年9月に武田昌次が小笠原島入りしたとの記述は月のずれはありますが裏が取れ、信憑性があります。この赴任の際に西洋蜜蜂を船に乗せてきたことになります。“勧農局の手を経て”とは、その蜜蜂の出所が新宿試験場だったことを確定します。 ”父島扇村二子山に飼養せし“とありますが、内務省出張所は扇浦、勧農局出張所は北袋沢に設置されましたので飼育エリアとしてその近辺と言うことは納得いくものです。
ここで改めて記述内容の詳しい13年説の“小笠原島誌纂”と11年説の“小笠原島志”を対照してみましょう。
小笠原島誌纂、1888(M21)、 東京府小笠原庁編、 p421
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小笠原島志、1906(M39)、 山方石之助著、 p597 |
明治13年6月武田昌次氏が赴任の際、伊太利蜜蜂5箱を携え来りしが、この中2箱は損害し、唯3箱遺りたるを祖とし、之を北袋沢に育養せし~
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蜜蜂は明治11年9月伊太利蜂2箱を武田昌次が勧農局の手を経て、本島に持ち来りこれを父島扇村二子山に飼養せしに始まる~
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“小笠原島誌纂”には“武田昌次氏が赴任の際”という重要語句があります。
“小笠原島誌纂”が“明治13年6月武田昌次氏が赴任の際~”と記述していますが、史実として明治13年6月に赴任はありません。武田昌次は明治11年11月に内務省勧農局小笠原島出張所試験地に所長として“赴任“しました。当初は5月にインド・ジャワから帰国、6月就任の予定でしたが、帰国が8月5日となったために遅れました。明治11年6月に就任予定ということは関係者には周知されていたようですし、本人の書簡にも7月には小笠原島入りするとの記述があります。(――>小笠原島要録第3編4の7)武田昌次の小笠原島赴任事前情報は正しくは明治11年6月で実際の来島は明治11年11月5日でした。
小笠原島誌纂の“明治13年6月”を生かせば“武田昌次氏が赴任”消えます。“武田昌次氏が赴任”を生かせば、“明治13年6月”は消えます。
この点について筆者は以下のように考えます。編者は関係者に取材をしたようです。その情報提供者の情報が少し誤っていたケースは考えられます。
“明治13年6月武田昌次氏が赴任の際~”の中で“明治13年6月”と“赴任”のどちらを生かすかといえば、“赴任”という事実の方です。“赴任”が動かない史実ですから、“明治13年6月”という記述に疑問を抱くのが当然だと思います。なんらかの手違いで13と11を間違えた。あるいは情報源で間違えたものと思われます。
同年に出版されている“小笠原島物産略”や“小笠原島要覧”も13年6月としていることから、原因は情報原の問題と言えると思います。情報を精査しないため、武田昌次の小笠原島に赴任の時期に誤謬があったものと思います。同じ情報提供者からの聴き取りにより、記述したものと考えられます。
“明治13年6月武田昌次氏が赴任の際~”を、“明治11年6月武田昌次氏が赴任の際~”とお置き換えると就任予定時期と合致します。
西洋蜜蜂の出どころについて
“小笠原島誌纂”は“赴任の際・・・携え来りし”と記述しています。赴任の際に内務省勧農局内藤新宿試験場から運んだとのことに疑問を挟む余地はありません。“小笠原島志”では“勧農局の手を経て”との記述しており、西洋蜜蜂の出どころを特定しています。それは内務省勧農局内藤新宿試験場です。このように2書に食い違いはないことになります。
西洋蜜蜂の小笠原島移入は明治11年11月5日
明治21年出版の“小笠原島物産略誌”、“小笠原島要覧”、“小笠原島誌纂”の3誌の記述“明治13年6月“は正しくは”明治11年6月“であり、関係者に周知されていた武田昌次の小笠原島赴任予定時期でした。“小笠原島志”にある“明治11年9月”は赴任予定時期ではなく、ずれはありますが実際に小笠原島入りした時期に当ります。”小笠原島総覧”は”明治11年”で月の記述はありませんが、5誌とも西洋蜜蜂の小笠原島移入の時期を、武田昌次の小笠原島赴任の時期としていることになります。武田昌次の小笠原島赴任の期日は明治11年1月5日ですから、西洋蜜蜂の移入は明治11年となります。
武田昌次による西洋蜜蜂の小笠原島移入に13年説、11年説の2説あると思われていましたが、13年説には裏付けとなる史実がなく、成立しないことは前述の通りです。しかも、上述のように、明治21年出版の“小笠原島物産略誌”、“小笠原島要覧”、“小笠原島誌纂”の3誌は13年説というより、単純に年号間違いをしていたというだけでした。何か裏付けがあっての13年説ではありませんでした。
明治39年出版の“小笠原島志”と”昭和4年出版の小笠原島総覧”は、明治21年出版の“ 小笠原島物産略”、“小笠原島要覧”、“小笠原島誌纂”を参考文献としていますが、別の確実な資料や文献や関係者等からの証言を得て、“明治13年6月”を“明治11年9月”、”明治11年”と正したと考えられます。
明治11年11月5日に郵船社寮丸にて武田昌次が長男重吉、、農夫頭、10人の農夫、500本のコーヒー苗木、500本のキナの苗木と共に小笠原島に西洋蜜蜂を複数箱積んできた。というのが本調査で得た結論です。
西洋蜜蜂の小笠原島移入は明治11年11月5日との確定を援護する史料が現段階で少なくとも2点あります。
○ 武田昌次は養蜂に特別な思い入れがあり、明治8年にはすでに小笠原島に養蜂新天地のビジョンを描いていた。
本稿の付5)武田昌次の足跡の ○明治8年1月頃 蜜市を訪問 で記述しましたように、武田昌次は貞市次郎に小笠原へ行って、養蜂の新しい天地を開拓するようにすすめました。武田昌次は内務省官僚としてだけでなく、植物、動物学者としても小笠原島には並々ならぬ関心を持っていたようです。小笠原島は亜熱帯で本土とは全く違った気候で、植物、動物とも独特でした。一年中、気温が高く、草木に花が咲き乱れていました。しかし、ここには蜜蜂の在来種は存在しませんでした。ここに本土から種蜂と市次郎を送り込めば養蜂の新天地が開拓可能でした。武田昌次は、翌明治9年に始まる小笠原島の殖産政策の一つとして養蜂を思考していたのでした。しかし、市次郎は小笠原島行を承諾しませんでした。
武田昌次は養蜂に特別な思いを持っていました。以下のような理由が考えられます。
1)幼少の頃、ふるさとで日本蜜蜂に接する機会があり、ずっと、興味を持ち続けていた。それが、明治6年に「独逸農事図解第7蜜蜂養法」を見て触発され養蜂の産業化を思考するようになった。
2)アメリカの農家で牛馬だけでなく、蜜蜂も飼育しているのを直接、間接に見聞きしたことがあった。
3)アメリカで近代養蜂が発展して、一大産業となりつつあるとの情報を得ていた。
これらは想像の域を出ませんが、あり得ることです。ですから、小笠原島赴任が決まった時、蜜蜂を小笠原島に持参したいと思ったはずです。そして、それを実行するとしたら、赴任時です。後回しにするはずはありません。
○ 明治12年 武田昌次はインドから蜜源植物の種子輸入し、畑の畔や空き地に蒔き、蜜源枯渇期に備えた。
豊田武司氏は 「小笠原植物図譜」に49種の帰化種(帰化植物)を載せていますが、その中の9種は武田昌次と直井氏が明治12年にインドから輸入したことになっています。多量の参考文献がのっていますので、何の記録によるかは定かではありませんが、内務省勧農局小笠原試験場から東京府の小笠原亜熱帯農業センターが引き継いだ記録文書によるものと推測されます。その9種の中に「ヤハズカズラ」というつる植物があります。その説明文は下記のようです。
“明治12年に養蜂用として輸入した。畑横の防風林の中や林緑地などに植えられたものが現在野生化している。父島の境浦~扇浦、長谷、北袋沢にかけて大群生がみられる。蜜源植物として輸入されたが、今は利用されず雑草となっている。開花は特に固定せず、5~11月にかけて次々と長い花柄を伸ばし、花をつける。” (p289)
「小笠原諸島歴史日記」の中で編者の辻友衛氏はヤハズカズラの輸入を明治12年7月13日としています。(上巻p144)
筆者が1月に小笠原島を訪れた際、北袋沢のあちらこちらに、まだヤハズカズラ花が咲いていました。5月から咲き出し8ヶ月間も花が次々と咲き続いていたことになります。小笠原島でもさすが1月に咲く花は少なく、ヤハズカズラには蜜蜂が訪花していました。蜜の分泌の多少については分かりませんが、開花期間が長いということは蜜源植物としては願ってもないことです。しかも、10月以降も咲き続けるのは貴重です。養蜂家は年間を通して養蜂管理が一巡すると、どの時期に蜜源が切れ、どの時期に蜜源植物対策が必要かわかります。すなわち、飼育管理開始後にわかる蜜源植物対策の必要性です。養蜂者の観点からするとヤハズカズラは主蜜源植物ではなく補助蜜源植物といえます。すなわち蜂蜜を採取する大流蜜のある蜜源ではなく蜜源の枯渇期にミツバチが食するために役立つ蜜源植物です。小笠原でも10月以降開花植物はあまりありません。この蜜源植物対策の必要性から補助蜜源植物のヤハズカズラの輸入がされたと考えられます。
筆者が注目したのは、このヤハズカズラの輸入時期が明治12年だったということです。上述のように、飼育管理開始後にわかる蜜源植物対策の必要性という観点からすると、明治12年にはすでに養蜂管理は進んでいたと考えるのが自然です。この点も、武田昌次の西洋蜜蜂の小笠原移入が明治11年11月5日の赴任時だったことを援護する重要な事柄です。
西洋ミツバチ小笠原島移入時期の確定
■移入の申請と着手の記録
筆者は養蜂の合間の研究とはいえ、武田昌次による西洋ミツバチの小笠原島移入の明治13年説と明治11年説の精査に何年もかかってしまいましたが、武田昌次の業務日程と状況証拠から明治11年11月5日の移入が史実であると結論しました。それから2年程経った頃、最後のトドメともいえる史料を発見しました。それは農務顛末第6巻第30小笠原島第42項と第45項です。
一、意太利亞蜜蜂 弐箱
一、洋種牝トク(小牛) 弐
一、洋種牡トク(小牛) 壱
小笠原嶋着手に付は単に植物の業のみならず野花も有。之牧地も有之候。間、府縣貸與引当飼畜之分書面之通り。此度持越申度左候。得は、牛は兼て肥料の用に供し候。間、至極都合之義と存候。間、洋種牛之義は彼島にて外国人にて20頭も所持之者有之候処、格外之高価を申誇り候。間、内地より書面之通り先持越申度此段相伺候也
(カタカナ書きをひらがな表記にしました。一部の旧漢字を現代漢字としました。句読点=筆者)
農務顛末第6巻第30小笠原島第42項は、武田昌次が小笠原島赴任に当たり、蜜蜂2箱と洋種牛3頭を新宿試験場から持ち出す許可を申請している内務省内文書です。意味はこうです。
この度、亜熱帯植物移植のため小笠原島に赴任しますが、植物関連以外の業務も致したく思います。彼島は野花も豊富で養蜂に適しています。試験場の蜜蜂の府県への分配案は別に提出書面の通りですが、2箱を小笠原島に持参したく願い出ます。又彼島は牧草にも恵まれていて、牧牛にも最適です。牛は堆肥を作るのに好都合です。洋種牛は彼島では既に欧米系住民で20頭も所有している者がおりますが、法外の高値ですので、内地から3頭持ち越したく願い出ます。
この申請に対する回答あるいは決済の文書は今のところ発見されていないのですが、「小笠原島勧農局着手場明治11年一覧表」という文書が同じく農務顛末第6巻第30小笠原島第45項にあります。
「小笠原島勧農局着手場明治11年一覧表」
動物の欄に「蜜蜂2室」とあります。農務顛末第6巻第30小笠原島第42項で見ましたように、明治11年9月に蜜蜂の小笠原島移入を申請し、「明治11年7月より12月31日迄調」に記載されているのですから、11月5日到着の船で持ってきたということは疑う余地はありません。
ここで思い出すのは山方石之助著の「小笠原島志」です。 小花作助閲なのか、農務顛末第6巻第30小笠原島第42項を資料としたのか、記述が一番正確です。実際に小笠原島に到着したのは明治11年11月5日でしたが、改めて以下に引用してみます。
蜜蜂は明治11年9月伊太利蜂2箱を武田昌次が勧農局の手を経て本島に持ち来りこれを父島扇村二子山に飼養せしに始まる~ (p623~4)
■農務顛末について
「農務顛末」は内務省勧業寮に始まった明治政府の農業政策の詳細な手書きによる記録文書です。原本は東京大学農学部に所蔵されていますが、1952年(昭和27年)に農林省が活字化し、刊行しました。資料6巻と目次1巻からなり、31篇に分けられています。
蜜蜂も明治政府の農業振興政策の一つでしたから、数々の記録文書があるはずです。調べていくと、第4巻第15が「蜜蜂」です。しかし(欠本)となっています。「蜜蜂」以外にも(欠本)となっている篇があります。東京大学農学部の前身、東京農林学校の時代に洪水があり、かなりの資料が遺失したとのことですので、蜜蜂に関する資料もその一つだったのかもしれません。
無念です。第15「蜜蜂」には洋蜜蜂の輸入、新宿試験場での飼育試験、各県への払い下げ、小笠原島への移出等の詳細が記述されていたはずなのです。他の編目の資料を考えると、「蜜蜂」も少なくとも100頁位の分量があったのではないかと思います。
第4巻第15「蜜蜂」は遺失していましたが、農務顛末第6巻第30小笠原島第42項農務顛末に武田昌次の西洋蜜蜂小笠原島移入に関する記述が断片的に残っていました。その一つが「農務顛末第6巻第30小笠原島第42項」、もう一つが「小笠原島勧農局着手場明治11年一覧表」です。
この二つの文書のおかげで、長い間謎であった日本の西洋ミツバチ史の一端を垣間見ることができるようになりました。
「農務顛末第6巻第30小笠原島第42項」と「小笠原島勧農局着手場明治11年一覧表」の記録を引用したり、根拠にした養蜂の歴史に関する記述は今までありません。農林省畜産局編纂の「畜産発達史」でさえも、引用や言及はありません。
――>畜産発達史資料と執筆者について記述準備中
養蜂の歴史研究者が農務顛末第6巻第30小笠原島第42項」と「小笠原島勧農局着手場明治11年一覧表」の記録に辿り付いていたら、日本の養蜂の歴史は
現在のように混迷を続けていなかったと思われます。
3)内務省勧農局小笠原島出張所について
農務顛末第6巻第30小笠原島第44項「服部御用掛小笠原島在任中處務復命書」は服部五十二の報告書です。ここには 試験場となる北袋沢の地形や開拓状況などが詳しく書かれていて、土地と建物の見取り図が添付されています。
筆者が入手した小笠原島の明治期の写真の中に、出張所試験地建物を写したものが1枚、出張所試験地を写したものが1枚あります。現在の現地写真と対照したいと思います。
――>試験地建物 写真 & 現在の同場所準備中
――>試験地 写真 & 現在の同場所準備中
――>2万5千分1地図 スキャン準備中
4)蜜蜂の飼育場所について
農務顛末第6巻第30小笠原島第44項「服部御用掛小笠原島在任中處務復命書」に添付された内務省勧農局小笠原試験場の土地、見取り図に牧牛場所や蜜蜂飼育場所は有りません。試験場の土地の外で管理したものと思います。牧牛については武田牧場の項に詳細を記述しました。ここではミツバチの飼育場所について検証します。手がかりとなるのは、山方石之助著の「小笠原島志 」です。以下のような記述があります。
蜜蜂は明治11年9月伊太利蜂2箱を武田昌次が勧農局の手を経て本島に持ち来りこれを父島扇村二子山に飼養せしに始まる~ (p623~4)
――>2万5千分1地図 スキャン準備中
――>二子山付近の写真準備中
筆者が入手した小笠原島の明治期の写真の中に、二子山で飼育していたことを確定する資料として二子山養蜂場の写真が1枚あります。ここには武田昌次の娘婿長谷川常三郎が写っています。
――>長谷川常三郎養蜂の写真(個人所蔵/文部省所蔵/宮内庁所蔵)
■小笠原島養蜂の経過と結果
――>解説準備中
小笠原島物産略誌 1888(M21) 服部 徹 有隣堂 p30 |
小笠原島要覧 1888(M21) 磯村貞吉著 小花作助選 p251 |
小笠原島誌纂 1888(M21) 東京府小笠原庁編 p421~2 |
小笠原島志 1906(M39) 山方石之助著 小花作助閲? p597 |
小笠原島総覧 1929(S4) 東京府編 p262 |
該島に於いては四時花卉綿々絶ゆる事なきを以て終歳蜜を醸さざる時なし。蜜蜂殊に好んでセンダングサとアコノキの花粉を採集し頗る良蜜を醸せり近来養蜂の事益々盛にして将来は一番の産物ともなるべきを信ずるなり。
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爾來意を注ぎ飼養せしが該島に於いて四時花卉連綿絶ゆる事なきを以て終歳蜜を醸さざる時なし。蜜蜂殊に好んでセンダングサとあこのきの花粉を舐吸し頗る良蜜を醸せり。敵虫は蟻及びあぶらむしなれども、蟻は蜂箱を載する台の四脚を水盆中に入れ置くを以て之を防ぐ事を容易らり。一年に3回(分巣せざれば五回の蜜を採り得ると云う)蜜を採り得べしと云う。聞く所によれば各年の産出額蜜二百四十貫目、蜜蝋二十五貫目余りを獲たりと。将来此島には頗る有益の業と言うべし。
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漸々繁殖して十二箱にいたりしを仝十五年二子村長谷川某に與えて飼養せしむ。元来本島に於ては四季花卉の絶ゆる事なく綿々接績して止まず。殊とに白花センダングサは冬月も猶繁栄して開発し花粉郁々林野に満つるえを以て蜜蜂もまた之を吸取する。終歳休む期なし故に飼養者は一年に四回蜜を採収すと云う。蜜蜂の敵害は蟻とあぶらむしなりしが蟻は蜜箱を載する台の四脚を水盆中に入れ置き之を防ぐ。あぶらむしは侵入せんとするも衆蜂群刺終に之を退け或は之を殺す。現今蜜箱増殖して八十二箱あり、一箱より毎年一年平均蜜を採収する五貫五百目より六貫にして白蝋を製得する平均約五百目位ありしが今年度は前年三度の風災に因り蜜を収むる二百六十貫目、蝋を製する十六貫目なりと云う。
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其後漸次に分封して二百箱の多きに達せしが飼料給せざるにより蜂の餓死せしものあり、又数度内地に輸出せしにより減じて八、九十箱となりしがなお本島の花卉少なくして飼養充分ならずより手現今五、六十箱を限度とするに至れり。箱は旧式にして未だ改良箱を用いず、此の収入は一箱に付豊産の歳は金十五円、減産すれば七、八円内外に止まる。分封は大抵年一回なれども時として孫分かれを見ることあり。 |
本島は四時蜜源の絶ゆる事がないので、頗る養蜂に適し、繁殖も旺盛で分封群なども、森林中に入って樹洞内に繁殖し、野生的状態になったものが少なくない。明治45年頃は最も養蜂の盛況を極めた時で、単に採蜜を為すのみでなく、種蜂として盛んに移出せられ、島のみでも三百群以上の飼養数に達したことがあって農家の副業として有望なものの一つである。
(付記) 大正十四年現在 飼養戸数六一戸、蜂群数一七一、採蜜量一四七貫 |
明治21年出版の3誌の内容はほぼ同じで取材先が同一であったと思われます。聞いた話やデータについて“・・・と云う“”聞くところによれば“との記述がみられます。これらの記録から以下のようなことがわかります。
あ) 武田昌次が移入してきた蜜蜂を熱心に飼養した結果、徐々に増えてき、2箱あるいは3箱だったものが12箱になった。飼育担当に二子村長谷川某をあてた。長谷川某とは長谷川常三郎を指すものと思われます。
い)小笠原島は一年中花が咲き、年間を通して蜜が採れる。蜜源として“センダングサ”と“あこのき”が登場しています。
う)害虫は蟻とアブラムシ。 蟻対策として 箱台の四足を水盆にいれている。アブラムシとは小笠原島ではゴキブリのこと。対策は蜂任せで特にしていない。
え)採蜜は年3~5回
お)取材時点で蜂群数は82箱。
か)採蜜量は1群あたり1年で約五貫五百目~六貫目(約20.5~22.5kg)1年総量台風被害を受けた歳の減収でも二百六十貫目(約900kg~975kg)(1年総量は二百四十貫目~)蜜蝋十六貫目(93.75kg)
き)養蜂は将来有望で島一番の特産品になる。
明治39年と昭和4年出版の2誌ではその後の様子がわかります。
あ)200箱にまで増えたが餌切れによる餓死と内地への輸出で8、90箱になった。 取材時点(明治39年より前)では、さらに減り5、60群。
い)内地へ種蜂として輸出が盛んにおこなわれたが、明治45年頃が蜂群数のピークで島内だけで、300群以上だった。農家の副業として有望しされ、此の収入は一箱に付豊産の歳は金15円、減産すれば七、八円内外に止まる
う)大正14年現在では、島内飼養戸数61戸、蜂群数171群。
え)箱は旧式にして未だ改良箱を用いず。
お)分封は大抵年一回なれども時として孫分かれを見ることあり
か)繁殖も旺盛で分封群なども、森林中に入って樹洞内に繁殖し、野生的状態になったものが少なくない。
き)単に採蜜を為すのみでなく、種蜂として盛んに移出せられ、数度内地に輸出せし
聴き取り先&情報提供者について
上記の5書とも養蜂の詳細にまで言及しており、一読して“情報提供者の存在”に気付きます。各書とも養蜂当事者に聴き取り取材をして、各自の色合いで記述したといえます。特に「小笠原島要覧 」の磯村貞吉と「小笠原島誌纂」の 東京府小笠原庁担当者は“・・・と云う” とか “聞く所によれば”のように情報の発信元の存在を言明しています。
「小笠原島志」 の山方石之助は上述のような表現はしていないのですが、小笠原島に来て聴き取り取材したことが、元小笠原村役場職員の辻友衛氏の著書に記述されています。
同月(1904年・明治37年10月)島庁から「小笠原島志」 の編纂を委嘱された山方石之助が来島し、史料を収集する。 (小笠原諸島歴史日記上巻、 p216)
養蜂に関して聴き取り先となったと思われる、武田昌次の養蜂後継者は以下のようです。
代 |
名前 |
群数 |
備考 |
1代目 (明治 11年~15年) |
武田昌次 |
移入は2箱
|
●明治11年11月5日小笠原出張所長として赴任時に蜜蜂2箱を移入。 ●明治12年6月蜜源植物「ヤハズカズラ」を印度から輸入。 ●明治14年月退職。持病悪化? ●明治15年春帰京? |
2代目 (明治 15年~ 20年くらい?) |
長谷川常三郎 |
12箱を引き継ぐ |
●明治15年、武田昌次から蜜蜂飼育を引き継ぐ ●武田昌次の娘婿 ●武田昌次の長男重吉と共に、小笠原農業を先導する。 ●武田重吉と連名で養蜂、牧牛、繊維植物などの事業拡大のために政府資金借用を申請 ●明治18年9月14日、島会議所(現在でいう議会)の扇浦地区議員に選出される。 ●牛乳の販路拡大のため帰京(時期不明) |
3代目 (明治 20年くらい~? |
砂岡伊三吉 |
不明 |
●長谷川常三郎から養牛、養蜂を任せられる。(時期不明) ●長谷川常三郎が信頼する者(元勧農局雇職人で長谷川より15歳程度年上か?) ●明治23~24年玉利喜造に種蜂移出
●明治25~27年青柳浩次郎に種蜂移出 ●病死 |
4代目 (明治
|
五十嵐八五郎 |
明治42年当時40箱 |
●砂岡伊三吉の病死により養蜂を引き継ぐ。(時期不明) ●砂岡伊三吉のむすめ婿。
●明治37年10月、山方石之助が聴き取り。明治39年、小笠原島志出版 ●明治42年、43年に岩田太平治が聴き取り。 ●本土へ移出 明治41年13箱 明治42年20箱以上 明治43年30箱 明治44年22箱 |
武田昌次の養蜂後継者たち及び長谷川常三郎については、付5)武田昌次の足跡 の最後尾辺りで詳細に記述しましたので、ご参考ください。
異説について
武田昌次が小笠原島に移入したことには異論がないものの、その西洋蜜蜂の出どころや小笠原島移入時期については、現在さまざまな異説が存在します。裏を取らずに書を著すということは現代でも多いわけですが、読者も記述されている内容を鵜呑みにしないで精査する必要があります。
<13年に3群払い下げ説>
(西洋蜜蜂は)明治10年頃より現在の新宿御苑にあった新宿試験場で試験的に飼育した。しかし明治12年に新宿試験場が解体されるにあたり、明治11年に勧農省が作ったばかりの小笠原北袋沢出張所(現亜熱帯農業センター)にも明治13年に三群が払い下げられ、セイヨウミツバチによる養蜂がスタートした。 (小笠原養蜂ブログ)
<宮内庁から13年に払い下げ説>
1879年(明治12)5月新宿試験場が宮内省に移管された時、そこの蜜蜂だけは翌年まで預かり置き、翌年に小笠原島へ移されたのかもしれない。
(畜産発達史、昭和41年、農林省畜産局、p1320)明治13年(1879)武田昌二氏、布哇より伊種を輸入して小笠原島に於て之が改良飼育を試み好結果を得た。(蜜蜂第一巻、徳田義信、昭和3年、p61)
<13年にハワイから輸入説>
明治13年(1879)武田昌二氏、布哇より伊種を輸入して小笠原島に於て之が改良飼育
を試み好結果を得た。
(蜜蜂第一巻、徳田義信、昭和3年、p61)
明治13年には小笠原島の島司武田昌次氏が布哇(ハワイ)からイタリアン種を輸入し、
(最新実利養蜂の経営、渡邊寛、昭和7年、p19)、
(実験50年養蜂経営の実際、渡邊寛、昭和25年、p78)、
(近代養蜂、渡邊寛、昭和49年、p204)